い。強い意志を刻んだやうな其大な額――いよ/\高く隆起《とびだ》した其頬の骨――殊に其眼は一種の神経質な光を帯びて、悲壮な精神《こゝろ》の内部《なか》を明白《あり/\》と映して見せた。時として顔の色沢《いろつや》なぞを好く見せるのは彼《あ》の病気の習ひ、あるひは其故《そのせゐ》かとも思はれるが、まあ想像したと見たとは大違ひで、血を吐く程の苦痛《くるしみ》をする重い病人のやうには受取れなかつた。早速丑松は其事を言出して、『実は新聞で見ました』から、『東京の御宅へ宛てゝ手紙を上げました』まで、真実を顔に表して話した。
『へえ、新聞に其様《そん》なことが出て居ましたか。』と蓮太郎は微笑《ほゝゑ》んで、『聞違へでせう――不良《わる》かつたといふのを、今|不良《わる》いといふ風に、聞違へて書いたんでせう。よく新聞には左様《さう》いふ間違ひが出て来ますよ。まあ御覧の通り、斯うして旅行が出来る位ですから安心して下さい。誰がまた其様《そん》な大袈裟《おほげさ》なことを書いたか――はゝゝゝゝ。』
聞いて見ると、蓮太郎は赤倉の温泉へ身体を養ひに行つて、今其|帰途《かへりみち》であるとのこと。其時|同伴《つれ》の人々をも丑松に紹介した。右側に居る、何となく人格の奥床《おくゆか》しい女は、先輩の細君であつた。肥大な老紳士は、かねて噂《うはさ》に聞いた信州の政客《せいかく》、この冬打つて出ようとして居る代議士の候補者の一人、雄弁と侠気《をとこぎ》とで人に知られた弁護士であつた。
『あゝ、瀬川君と仰《おつしや》るんですか。』と弁護士は愛嬌《あいけう》のある微笑《ほゝゑみ》を満面に湛へ乍ら、快活な、磊落《らいらく》な調子で言つた。『私は市村です――只今長野に居ります――何卒《どうか》まあ以後御心易く。』
『市村君と僕とは、』蓮太郎は丑松の顔を眺めて、『偶然なことから斯様《こんな》に御懇意にするやうになつて、今では非常な御世話に成つて居ります。僕の著述のことでは、殊にこの市村君が心配して居て下さるんです。』
『いや。』と弁護士は肥大な身体を動《ゆす》つた。『我輩こそ反《かへ》つて種々《いろ/\》御世話に成つて居るので――まあ、年だけは猪子君の方がずつと若い、はゝゝゝゝ、しかし其他のことにかけては、我輩の先輩です。』斯う言つて、何か思出したやうに嘆息して、『近頃の人物を数へると、いづれも年少気鋭の士ですね。我輩なぞは斯の年齢《とし》に成つても、未だ碌々《ろく/\》として居るやうな訳で、考へて見れば実に御恥しい。』
斯《か》ういふ言葉の中には、真に自身の老大を悲むといふ情《こゝろ》が表れて、創意のあるものを忌《い》むやうな悪い癖は少許《すこし》も見えなかつた。そも/\は佐渡の生れ、斯の山国に落着いたは今から十年程前にあたる。善にも強ければ悪にも強いと言つたやうな猛烈な気象から、種々《さま/″\》な人の世の艱難、長い政治上の経験、権勢の争奪、党派の栄枯の夢、または国事犯としての牢獄の痛苦、其他多くの訴訟人と罪人との弁護、およそありとあらゆる社会の酸いと甘いとを嘗《な》め尽して、今は弱いもの貧しいものゝ味方になるやうな、涙脆い人と成つたのである。天の配剤ほど不思議なものは無い――この政客が晩年に成つて、学もあり才もある穢多を友人に持たうとは。
猶《なほ》深く聞いて見ると、これから市村弁護士は上田を始めとして、小諸、岩村田、臼田なぞの地方を遊説する為、政見発表の途《みち》に上るのであるとのこと。親しく佐久小県地方の有権者を訪問して草鞋穿《わらぢばき》主義で選挙を争ふ意気込であるとのこと。蓮太郎はまた、この友人の応援の為、一つには自分の研究の為、しばらく可懐《なつか》しい信州に踏止まりたいといふ考へで、今宵は上田に一泊、いづれ二三日の内には弁護士と同道して、丑松の故郷といふ根津村へも出掛けて行つて見たいとのことであつた。この『根津村へも』が丑松の心を悦ばせたのである。
『そんなら、瀬川さんは今飯山に御奉職《おいで》ですな。』と弁護士は丑松に尋ねて見た。
『飯山――彼処からは候補者が出ませう? 御存じですか、あの高柳利三郎といふ男を。』
蛇《じや》の道は蛇《へび》だ。弁護士は直に其を言つた。丑松は豊野の停車場《ステーション》で落合つたことから、今この同じ列車に乗込んで居るといふことを話した。何か思当ることが有るかして、弁護士は不思議さうに首を傾《かし》げ乍《なが》ら、『何処へ行くのだらう』を幾度となく繰返した。
『しかし、是だから汽車の旅は面白い。同じ列車の内に乗合せて居ても、それで互ひに知らずに居るのですからなあ。』
斯う言つて弁護士は笑つた。
病のある身ほど、人の情の真《まこと》と偽《いつはり》とを烈しく感ずるものは無い。心にも無いことを言つて慰めて呉れる
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