供ですからねえ。まあ、私は母のことを克《よ》く覚えても居ない位なんです――実際母親といふものゝ味を真実《ほんたう》に知らないやうなものなんです。父親《おやぢ》だつても、矢張|左様《さう》で、この六七年の間は一緒に長く居て見たことは有ません。いつでも親子はなれ/″\。実は父親も最早《もう》好い年でしたからね――左様《さう》ですなあ貴方の父上《おとつ》さんよりは少許《すこし》年長《うへ》でしたらう――彼様《あゝ》いふ風に平素《ふだん》壮健《たつしや》な人は、反《かへ》つて病気なぞに罹《かゝ》ると弱いのかも知れませんよ。私なぞは、ですから、親に縁の薄い方の人間なんでせう。と言へば、まあお志保さん、貴方だつても其御仲間ぢや有ませんか。』
斯《こ》の言葉はお志保の涙を誘ふ種となつた。あの父親とは――十三の春に是寺へ貰はれて来て、それぎり最早《もう》一緒に住んだことがない。それから、あの生《うみ》の母親とは――是はまた子供の時分に死別れて了つた。親に縁の薄いとは、丁度お志保の身の上でもある。お志保は自分の家の零落を思出したといふ風で、すこし顔を紅《あか》くして、黙つて首を垂れて了つた。
そのお志保の姿を注意して見ると、亡くなつた母親といふ人も大凡《おほよそ》想像がつく。『彼娘《あのこ》の容貌《かほつき》を見ると直《すぐ》に前《せん》の家内が我輩の眼に映る』と言つた敬之進の言葉を思出して見ると、『昔風に亭主に便《たよる》といふ風で、どこまでも我輩を信じて居た』といふ女の若い時は――いづれこのお志保と同じやうに、情の深い、涙脆《なみだもろ》い、見る度に別の人のやうな心地《こゝろもち》のする、姿ありさまの種々《いろ/\》に変るやうな人であつたに相違ない。いづれこのお志保と同じやうに、醜くも見え、美しくも見え、ある時は蒼く黄ばんで死んだやうな顔付をして居るかと思ふと、またある時は花のやうに白い中《うち》にも自然と紅味《あかみ》を含んで、若く、清く、活々とした顔付をして居るやうな人であつたに相違ない。まあ、お志保を通して想像した母親の若い時の俤《おもかげ》は斯《か》うであつた。快活な、自然な信州北部の女の美質と特色とは、矢張丑松のやうな信州北部の男子《をとこ》の眼に一番よく映るのである。
旅の仕度が出来た後、丑松はこの二階を下りて、蔵裏《くり》の広間のところで皆《みんな》と一緒に茶を飲んだ。新しい木製の珠数《じゆず》、それが奥様からの餞別であつた。やがて丑松は庄馬鹿の手作りにしたといふ草鞋《わらぢ》を穿《は》いて、人々のなさけに見送られて蓮華寺の山門を出た。
第七章
(一)
それは忘れることの出来ないほど寂しい旅であつた。一昨年《をとゝし》の夏帰省した時に比べると、斯《か》うして千曲川《ちくまがは》の岸に添ふて、可懐《なつか》しい故郷の方へ帰つて行く丑松は、まあ自分で自分ながら、殆んど別の人のやうな心地がする。足掛三年、と言へば其程長い月日とも聞えないが、丑松の身に取つては一生の変遷《うつりかはり》の始つた時代で――尤《もつと》も、人の境遇によつては何時変つたといふことも無しに、自然に世を隔てたやうな感想《かんじ》のするものもあらうけれど――其|精神《こゝろ》の内部《なか》の革命が丑松には猛烈に起つて来て、しかも其を殊に深く感ずるのである。今は誰を憚《はゞか》るでも無い身。乾燥《はしや》いだ空気を自由に呼吸して、自分のあやしい運命を悲しんだり、生涯の変転に驚いたりして、無限の感慨に沈み乍《なが》ら歩いて行つた。千曲川の水は黄緑の色に濁つて、声も無く流れて遠い海の方へ――其岸に蹲《うづくま》るやうな低い楊柳《やなぎ》の枯々となつた光景《さま》――あゝ、依然として旧《もと》の通りな山河の眺望は、一層丑松の目を傷《いた》ましめた。時々丑松は立留つて、人目の無い路傍《みちばた》の枯草の上に倒れて、声を揚げて慟哭《どうこく》したいとも思つた。あるひは、其を為《し》たら、堪へがたい胸の苦痛《いたみ》が少許《すこし》は減つて軽く成るかとも考へた。奈何《いかん》せん、哭《な》きたくも哭くことの出来ない程、心は重く暗く閉塞《とぢふさが》つて了つたのである。
漂泊する旅人は幾群か丑松の傍《わき》を通りぬけた。落魄の涙に顔を濡して、餓《う》ゑた犬のやうに歩いて行くものもあつた。何か職業を尋ね顔に、垢染《あかじ》みた着物を身に絡《まと》ひ乍ら、素足の儘《まゝ》で土を踏んで行くものもあつた。あはれげな歌を歌ひ、鈴振鳴らし、長途の艱難を修行の生命《いのち》にして、日に焼けて罪滅《つみほろぼ》し顔な巡礼の親子もあつた。または自堕落な編笠姿《あみがさすがた》、流石《さすが》に世を忍ぶ風情《ふぜい》もしをらしく、放肆《ほしいまゝ》に恋慕の一曲を
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