か言はうものなら、私は斯様《こんな》に裸体《はだか》で嫁に来やしなかつたなんて、其を言はれると一言《いちごん》も無い。実際、彼奴《あいつ》が持つて来た衣類《もの》は、皆な我輩が飲んで了つたのだから――はゝゝゝゝ。まあ、君等の目から見たら、さぞ我輩の生涯なぞは馬鹿らしく見えるだらうねえ。』
述懐は反《かへ》つて敬之進の胸の中を軽くさせた。其晩は割合に早く酔つて、次第に物の言ひ様も煩《くど》く、終《しまひ》には呂律《ろれつ》も廻らないやうに成つて了つたのである。
軈《やが》て二人は斯《こ》の炉辺《ろばた》を離れた。勘定は丑松が払つた。笹屋を出たのは八時過とも思はれる頃。夜の空気は暗く町々を包んで、往来の人通りもすくない。気が狂《ちが》つて独語《ひとりごと》を言ひ乍ら歩く女、酔つて家《うち》を忘れたやうな男、そんな手合が時々二人に突当つた。敬之進は覚束《おぼつか》ない足許《あしもと》で、やゝともすれば往来の真中へ倒れさうに成る。酔眼|朦朧《もうろう》、星の光すら其瞳には映りさうにも見えなかつた。拠《よんどころ》なく丑松は送り届けることにして、ある時は右の腕で敬之進の身体《からだ》を支へるやうにしたり、ある時は肩へ取縋《とりすが》らせて背負《おぶ》ふやうにしたり、ある時は抱擁《だきかゝ》へて一緒に釣合を取り乍ら歩いた。
漸《やつと》の思で、敬之進を家まで連れて行つた時は、まだ細君も音作夫婦も働いて居た。人々は夜露を浴び乍ら、屋外《そと》で仕事を為て居るのであつた。丑松が近《ちかづ》くと、それと見た細君は直に斯う声を掛けた。
『あちや、まあ、御困りなすつたでごはせう。』
第五章
(一)
十一月三日はめづらしい大霜。長い/\山国の冬が次第に近《ちかづ》いたことを思はせるのは是《これ》。其朝、丑松の部屋の窓の外は白い煙に掩《おほ》はれたやうであつた。丑松は二十四年目の天長節を飯山の学校で祝ふといふ為に、柳行李《やなぎがうり》の中から羽織袴を出して着て、去年の外套《ぐわいたう》に今年もまた身を包んだ。
暗い楼梯《はしごだん》を下りて、北向の廊下のところへ出ると、朝の光がうつくしく射して来た。溶けかゝる霜と一緒に、日にあたる裏庭の木葉《このは》は多く枝を離れた。就中《わけても》、脆《もろ》いのは銀杏《いてふ》で、梢《こずゑ》には最早《もう》一葉《
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