ひとは》の黄もとゞめない。丁度其|霜葉《しもば》の舞ひ落ちる光景《ありさま》を眺め乍ら、廊下の古壁に倚凭《よりかゝ》つて立つて居るのは、お志保であつた。丑松は敬之進のことを思出して、つく/″\彼《あ》の落魄《らくはく》の生涯《しやうがい》を憐むと同時に、亦《ま》た斯《こ》の人を注意して見るといふ気にも成つたのである。
『お志保さん。』と丑松は声を掛けた。『奥様に左様《さう》言つて呉れませんか――今日は宿直の当番ですから何卒《どうか》晩の弁当をこしらへて下さるやうに――後で学校の小使を取りによこしますからツて――ネ。』
と言はれて、お志保は壁を離れた。娘の時代には克《よ》くある一種の恐怖心から、何となく丑松を憚《はゞか》つて居るやうにも見える。何処か敬之進に似たところでもあるか、斯《か》う丑松は考へて、其となく俤《おもかげ》を捜《さが》して見ると、若々しい髪のかたち、額つき――まあ、どちらかと言へば、彼《あ》の省吾は父親似、斯《こ》の人はまた亡《な》くなつたといふ母親の方にでも似たのであらう。『眼付なぞはもう彷彿《そつくり》さ』と敬之進も言つた。
『あの、』とお志保はすこし顔を紅《あか》くし乍ら、『此頃《こなひだ》の晩は、大層父が御厄介に成りましたさうで。』
『いや、私の方で反《かへ》つて失礼しましたよ。』と丑松は淡泊《さつぱり》した調子で答へた。
『昨日、弟が参りまして、其話をいたしました。』
『むゝ、左様《さう》でしたか。』
『さぞ御困りで御座《ござい》ましたらう――父が彼様《あゝ》いふ風ですから、皆さんの御厄介にばかり成りまして。』
敬之進のことは一時《いつとき》もお志保の小な胸を離れないらしい。柔嫩《やはらか》な黒眸《くろひとみ》の底には深い憂愁《うれひ》のひかりを帯びて、頬も紅《あか》く泣腫《なきは》れたやうに見える。軈《やが》て斯ういふ言葉を取交した後、丑松は外套の襟で耳を包んで、帽子を冠つて蓮華寺を出た。
とある町の曲り角で、外套の袖袋《かくし》に手を入れて見ると、古い皺《しわ》だらけに成つた手袋が其内《そのなか》から出て来た。黒の莫大小《メリヤス》の裏毛の付いたやつで、皺を延ばして填《は》めた具合は少許《すこし》細く緊《しま》り過ぎたが、握つた心地《こゝろもち》は暖かであつた。其手袋を鼻の先へ押当てゝ、紛《ぷん》とした湿気《しけ》くさい臭気《にほ
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