さ》へきれないといふ風で、自分の部屋の内を歩いて見た。其日の物語、あの二人の言つた言葉、あの二人の顔に表れた微細な感情まで思出して見ると、何となく胸肉《むなじゝ》の戦慄《ふる》へるやうな心地がする。先輩の侮辱されたといふことは、第一|口惜《くや》しかつた。賤民だから取るに足らん。斯《か》ういふ無法な言草は、唯考へて見たばかりでも、腹立たしい。あゝ、種族の相違といふ屏※[#「てへん+當」、第4水準2−13−50]《わだかまり》の前には、いかなる熱い涙も、いかなる至情の言葉も、いかなる鉄槌《てつつゐ》のやうな猛烈な思想も、それを動かす力は無いのであらう。多くの善良な新平民は斯うして世に知られずに葬り去らるゝのである。
 斯《こ》の思想《かんがへ》に刺激されて、寝床に入つてからも丑松は眠らなかつた。目を開いて、頭を枕につけて、種々《さま/″\》に自分の一生を考へた。鼠が復た顕れた。畳の上を通る其足音に妨げられては、猶々《なほ/\》夢を結ばない。一旦吹消した洋燈を細目に点《つ》けて、枕頭《まくらもと》を明くして見た。暗い部屋の隅の方に影のやうに動く小《ちひさ》な動物の敏捷《はしこ》さ、人を人とも思はず、長い尻尾を振り乍ら、出たり入つたりする其有様は、憎らしくもあり、をかしくもあり、『き、き』と鳴く声は斯の古い壁の内に秋の夜の寂寥《さびしさ》を添へるのであつた。
 それからそれへと丑松は考へた。一つとして不安に思はれないものはなかつた。深く注意した積りの自分の行為《おこなひ》が、反つて他《ひと》に疑はれるやうなことに成らうとは――まあ、考へれば考へるほど用意が無さ過ぎた。何故《なぜ》、あの大日向が鷹匠町の宿から放逐された時に、自分は静止《じつ》として居なかつたらう。何故《なぜ》、彼様《あんな》に泡を食つて、斯の蓮華寺へ引越して来たらう。何故、あの猪子蓮太郎の著述が出る度に、自分は其を誇り顔に吹聴《ふいちやう》したらう。何故、彼様に先輩の弁護をして、何か斯う彼の先輩と自分との間には一種の関係でもあるやうに他《ひと》に思はせたらう。何故、彼の先輩の名前を彼様《あゝ》他《ひと》の前で口に出したらう。何故、内証で先輩の書いたものを買はなかつたらう。何故、独りで部屋の内に隠れて、読みたい時に密《そつ》と出して読むといふ智慧が出なかつたらう。
 思ひ疲れるばかりで、結局《まとまり》は着か
前へ 次へ
全243ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング