なんですか。』
『たしか高等師範でしたらう。』
『斯ういふ話を聞いたことが有ましたツけ。彼の先生が長野に居た時分、郷里の方でも兎《と》に角《かく》彼様《あゝ》いふ人を穢多の中から出したのは名誉だと言つて、講習に頼んださうです。そこで彼の先生が出掛けて行つた。すると宿屋で断られて、泊る所が無かつたとか。其様《そん》なことが面白くなくて長野を去るやうになつた、なんて――まあ、師範校を辞《や》めてから、彼の先生も勉強したんでせう。妙な人物が新平民なぞの中から飛出したものですなあ。』
『僕も其は不思議に思つてる。』
『彼様《あん》な下等人種の中から、兎に角思想界へ頭を出したなんて、奈何《どう》しても私には其理由が解らない。』
『しかし、彼の先生は肺病だと言ふから、あるひは其病気の為に、彼処《あそこ》まで到《い》つたものかも知れません。』
『へえ、肺病ですか。』
『実際病人は真面目ですからなあ。「死」といふ奴を眼前《めのまへ》に置いて、平素《しよつちゆう》考へて居るんですからなあ。彼の先生の書いたものを見ても、何となく斯う人に迫るやうなところがある。あれが肺病患者の特色です。まあ彼の病気の御蔭で豪《えら》く成つた人はいくらもある。』
『はゝゝゝゝ、土屋君の観察は何処迄も生理的だ。』
『いや、左様《さう》笑つたものでも無い。見たまへ、病気は一種の哲学者だから。』
『して見ると、穢多が彼様《あゝ》いふものを書くんぢや無い、病気が書かせるんだ――斯う成りますね。』
『だつて、君、左様《さう》釈《さと》るより外に考へ様は無いぢやないか――唯新平民が美しい思想を持つとは思はれないぢやないか――はゝゝゝゝ。』
斯ういふ話を銀之助と文平とが為して居る間、丑松は黙つて、洋燈《ランプ》の火を熟視《みつ》めて居た。自然《おのづ》と外部《そと》に表れる苦悶の情は、頬の色の若々しさに交つて、一層その男らしい容貌《おもばせ》を沈欝《ちんうつ》にして見せたのである。
茶が出てから、三人は別の話頭《はなし》に移つた。奥様は旅先の住職の噂《うはさ》なぞを始めて、客の心を慰める。子坊主は隣の部屋の柱に凭《もた》れて、独りで舟を漕いで居た。台所の庭の方から、遠く寂しく地響のやうに聞えるは、庄馬鹿が米を舂《つ》く音であらう。夜も更《ふ》けた。
(六)
友達が帰つた後、丑松は心の激昂を制《お
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