彼程《あれほど》極端に悲まなくてもよからう。』
『では、貧民とか労働者とか言ふやうなものに同情を寄せるのは不可《いかん》と言ふのかね。』
『不可と言ふ訳では無いよ。僕だつても、美しい思想だとは思ふさ。しかし、君のやうに、左様《さう》考へ込んで了つても困る。何故君は彼様《あゝ》いふものばかり読むのかね、何故君は沈んでばかり居るのかね――一体、君は今何を考へて居るのかね。』
『僕かい? 別に左様《さう》深く考へても居ないさ。君等の考へるやうな事しか考へて居ないさ。』
『でも何かあるだらう。』
『何かとは?』
『何か原因がなければ、そんなに性質の変る筈が無い。』
『僕は是で変つたかねえ。』
『変つたとも。全然《まるで》師範校時代の瀬川君とは違ふ。彼《あ》の時分は君、ずつと快活な人だつたあね。だから僕は斯う思ふんだ――元来君は欝《ふさ》いでばかり居る人ぢや無い。唯あまり考へ過ぎる。もうすこし他の方面へ心を向けるとか、何とかして、自分の性質を伸ばすやうに為たら奈何《どう》かね。此頃《こなひだ》から僕は言はう/\と思つて居た。実際、君の為に心配して居るんだ。まあ身体の具合でも悪いやうなら、早く医者に診せて、自分で自分を救ふやうに為るが可《いゝ》ぢやないか。』
暫時《しばらく》座敷の中は寂《しん》として話声が絶えた。丑松は何か思出したことがあると見え、急に喪心した人のやうに成つて、茫然《ばうぜん》として居たが。やがて気が付いて我に帰つた頃は、顔色がすこし蒼ざめて見えた。
『どうしたい、君は。』と銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めて、『はゝゝゝゝ、妙に黙つて了つたねえ。』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
と丑松は笑ひ紛《まぎらは》して了つた。銀之助も一緒になつて笑つた。奥様とお志保は二人の顔を見比べて、熱心に聞き惚れて居たのである。
『土屋君は「懴悔録」を御読みでしたか。』と文平は談話《はなし》を引取つた。
『否《いゝえ》、未《ま》だ読んで見ません。』斯う銀之助は答へた。
『何か彼の猪子といふ先生の書いたものを御覧でしたか――私は未だ何《なん》にも読んで見ないんですが。』
『左様《さう》ですなあ、僕の読んだのは「労働」といふものと、それから「現代の思潮と下層社会」――あれを瀬川君から借りて見ました。なか/\好いところが有ますよ、力のある深刻な筆で。』
『一体彼の先生は何処を出た人
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