、確に面白い人だと思はせた。文平はまた、時々お志保の方を注意して見た。お志保は着物の前を掻合せたり、垂れ下る髪の毛を撫付けたりして、人々の物語に耳を傾けて居たのである。
銀之助はそんなことに頓着なしで、軈《やが》て思出したやうに、
『たしか吾儕《わたしども》の来る前の年でしたなあ、貴方等《あなたがた》の卒業は。』
斯う言つてお志保の顔を眺めた。奥様も娘の方へ振向いた。
『はあ。』と答へた時は若々しい血潮が遽《にはか》にお志保の頬に上つた。そのすこし羞恥《はぢ》を含んだ色は一層《ひとしほ》容貌《おもばせ》を娘らしくして見せた。
『卒業生の写真が学校に有ますがね、』と銀之助は笑つて、『彼頃《あのころ》から見ると、皆《みん》な立派な姉さんに成りましたなあ――どうして吾儕《わたしども》が来た時分には、まだ鼻洟《はな》を垂らしてるやうな連中もあつたツけが。』
楽しい笑声は座敷の内に溢《あふ》れた。お志保は紅《あか》くなつた。斯ういふ間にも、独り丑松は洋燈《ランプ》の火影《ほかげ》に横になつて、何か深く物を考へて居たのである。
(五)
『ねえ、奥様。』と銀之助が言つた。『瀬川君は非常に沈んで居ますねえ。』
『左様《さやう》さ――』と奥様は小首を傾《かし》げる。
『一昨々日《さきをとゝひ》、』と銀之助は丑松の方を見て、『君が斯のお寺へ部屋を捜しに来た日だ――ホラ、僕が散歩してると、丁度本町で君に遭遇《でつくは》したらう。彼時《あのとき》の君の考へ込んで居る様子と言つたら――僕は暫時《しばらく》そこに突立つて、君の後姿を見送つて、何とも言ひ様の無い心地《こゝろもち》がしたねえ。君は猪子先生の「懴悔録」を持つて居た。其時僕は左様《さう》思つた。あゝ、また彼《あ》の先生の書いたものなぞを読んで、神経を痛めなければ可《いゝ》がなあと。彼様《あゝ》いふ本を読むのは、君、可くないよ。』
『何故?』と丑松は身を起した。
『だつて、君、あまり感化を受けるのは可くないからサ。』
『感化を受けたつても可いぢやないか。』
『そりやあ好い感化なら可いけれども、悪い感化だから困る。見たまへ、君の性質が変つて来たのは、彼の先生のものを読み出してからだ。猪子先生は穢多だから、彼様《あゝ》いふ風に考へるのも無理は無い。普通の人間に生れたものが、なにも彼《あ》の真似を為なくてもよからう――
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