奥様に言はせると、今の住職が敬之進の為に尽したことは一通りで無い。あの酒を断つたらば、とは克《よ》く住職の言ふことで、禁酒の証文を入れる迄に敬之進が後悔する時はあつても、また/\縒《より》が元へ戻つて了ふ。飲めば窮《こま》るといふことは知りつゝ、どうしても持つた病には勝てないらしい。その為に敷居が高くなつて、今では寺へも来られないやうな仕末。あの不幸《ふしあはせ》な父親の為には、どんなにかお志保も泣いて居るとのことであつた。
『左様《さう》ですか――いよ/\退職になりましたか。』
斯う言つて奥様は嘆息した。
『道理で。』と丑松は思出したやうに、『昨日私が是方《こちら》へ引越して来る時に、風間さんは門の前まで随いて来ましたよ。何故斯うして門の前まで一緒に来たか、それは今説明しようとも思はない、なんて、左様《さう》言つて、それからぷいと別れて行つて了ひました。随分酔つて居ましたツけ。』
『へえ、吾寺《うち》の前まで? 酔つて居ても娘のことは忘れないんでせうねえ――まあ、それが親子の情ですから。』
と奥様は復《ま》た深い溜息を吐《つ》いた。
斯ういふ談話《はなし》に妨《さまた》げられて、銀之助は思ふことを尽さなかつた。折角《せつかく》言ふ積りで来て、それを尽さずに帰るのも残念だし、栗飯が出来たからと引留められもするし、夜にでもなつたらば、と斯う考へて、心の中では友達のことばかり案じつゞけて居た。
夕飯は例になく蔵裏《くり》の下座敷であつた。宵の勤行《おつとめ》も済んだと見えて、給仕は白い着物を着た子坊主がして呉れた。五分心《ごぶしん》の灯は香の煙に交る夜の空気を照らして、高い天井の下をおもしろく見せる。古壁に懸けてある黄な法衣《ころも》は多分住職の着るものであらう。変つた室内の光景《ありさま》は三人の注意を引いた。就中《わけても》、銀之助は克《よ》く笑つて、其高い声が台所迄も響くので、奥様は若い人達の話を聞かずに居られなかつた。終《しまひ》にはお志保までも来て、奥様の傍に倚添《よりそ》ひ乍ら聞いた。
急に文平は快活らしくなつた。妙に婦人の居る席では熱心になるのが是男の性分で、二階に三人で話した時から見ると、この下座敷へ来てからは声の調子が違つた。天性|愛嬌《あいけう》のある上に、清《すゞ》しい艶のある眸《ひとみ》を輝かし乍ら、興に乗つてよもやまの話を初めた時は
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