いて居るのであつた。
『だつて君、いづれ何か原因が有るだらうぢやないか。』と文平は飽《あ》く迄《まで》も皮肉に出る。
『原因とは?』丑松は肩を動《ゆす》り乍ら言つた。
『ぢやあ、斯《か》う言つたら好からう。』と文平は真面目に成つて、『譬《たと》へば――まあ僕は例を引くから聞き給へ。こゝに一人の男が有るとしたまへ。其男が発狂して居るとしたまへ。普通《なみ》のものが其様な発狂者を見たつて、それほど深い同情は起らないね。起らない筈《はず》さ、別に是方《こちら》に心を傷《いた》めることが無いのだもの。』
『むゝ、面白い。』と銀之助は文平と丑松の顔を見比べた。
『ところが、若《も》しこゝに酷《ひど》く苦んだり考へたりして居る人があつて、其人が今の発狂者を見たとしたまへ。さあ、思ひつめた可傷《いたま》しい光景《ありさま》も目に着くし、絶望の為に痩せた体格も目に着くし、日影に悄然《しよんぼり》として死といふことを考へて居るやうな顔付も目に着く。といふは外でも無い。発狂者を思ひやる丈《だけ》の苦痛《くるしみ》が矢張|是方《こちら》にあるからだ。其処だ。瀬川君が人生問題なぞを考へて、猪子先生の苦んで居る光景《ありさま》に目が着くといふのは、何か瀬川君の方にも深く心を傷めることが有るからぢや無からうか。』
『無論だ。』と銀之助は引取つて言つた。『其が無ければ、第一読んで見たつて解りやしない。其だあね、僕が以前《まへ》から瀬川君に言つてるのは。尤も瀬川君が其を言へないのは、僕は百も承知だがね。』
『何故《なぜ》、言へないんだらう。』と文平は意味ありげに尋ねて見る。
『そこが持つて生れた性分サ。』と銀之助は何か思出したやうに、『瀬川君といふ人は昔から斯うだ。僕なぞはもうずん/\暴露《さらけだ》して、蔵《しま》つて置くといふことは出来ないがなあ。瀬川君の言はないのは、何も隠す積りで言はないのぢや無い、性分で言へないのだ。はゝゝゝゝ、御気の毒な訳さねえ――苦むやうに生れて来たんだから仕方が無い。』
斯う言つたので、聞いて居る人々は意味も無く笑出した。暫時《しばらく》準教員も写生の筆を休《や》めて眺めた。尋常一年の教師は又、丑松の背後《うしろ》へ廻つて、眼を細くして、密《そつ》と臭気《にほひ》を嗅《か》いで見るやうな真似をした。
『実は――』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら、『ある処から猪子先生の
前へ
次へ
全243ページ中191ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング