うも無いぞ。はゝゝゝゝ。時に、瀬川君、けふは御引越が出来ますね。』
 丑松は笑つて答へなかつた。傍《そば》に居た文平は引取つて、
『どちらへか御引越ですか。』
『瀬川君は今夜から精進《しやうじん》料理さ。』
『はゝゝゝゝ。』
 と笑ひ葬つて、丑松は素早く自分の机の方へ行つて了つた。
 毎月のこととは言ひ乍ら、俸給を受取つた時の人々の顔付は又格別であつた。実に男女の教員の身にとつては、労働《はたら》いて得た収穫を眺めた時ほど愉快に感ずることは無いのである。ある人は紙の袋に封じた儘《まゝ》の銀貨を鳴らして見る、ある人は風呂敷に包んで重たさうに提げて見る、ある女教師は又、海老茶袴《えびちやばかま》の紐《ひも》の上から撫《な》でゝ、人知れず微笑んで見るのであつた。急に校長は椅子を離れて、用事ありげに立上つた。何事かと人々は聞耳を立てる。校長は一つ咳払ひして、さて器械的な改つた調子で、敬之進が退職の件《こと》を報告した。就いては来る十一月の三日、天長節の式の済んだ後《あと》、この老功な教育者の為に茶話会を開きたいと言出した。賛成の声は起る。敬之進はすつくと立つて、一礼して、軈《やが》て拍子の抜けたやうに元の席へ復《かへ》つた。
 一同帰り仕度を始めたのは間も無くであつた。男女の教員が敬之進を取囲《とりま》いて、いろ/\言ひ慰めて居る間に、ついと丑松は風呂敷包を提《ひつさ》げて出た。銀之助が友達を尋《さが》して歩いた時は、職員室から廊下、廊下から応接室、小使部屋、昇降口まで来て見ても、もう何処にも丑松の姿は見えなかつたのである。

       (五)

 丑松は大急ぎで下宿へ帰つた。月給を受取つて来て妙に気強いやうな心地《こゝろもち》にもなつた。昨日は湯にも入らず、煙草も買はず、早く蓮華寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日《ひとひ》を過したのである。実際、懐中《ふところ》に一文の小使もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。悉皆《すつかり》下宿の払ひを済まし、車さへ来れば直に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。
 引越は成るべく目立たないやうに、といふ考へであつた。気掛りなは下宿の主婦《かみさん》の思惑《おもはく》で――まあ、この突然《だしぬけ》な転宿《やどがへ》を何と思つて見て居るだらう。何か彼《あの》放逐された大尽と
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