急いだのである。
 十月下旬の日の光は玻璃窓《ガラスまど》から射入つて、煙草の烟《けぶり》に交る室内の空気を明く見せた。彼処《あそこ》の掲示板の下に一群《ひとむれ》、是処の時間表の側《わき》に一団《ひとかたまり》、いづれも口から泡を飛ばして言ひのゝしつて居る。丑松は室の入口に立つて眺めた。見れば郡視学の甥《をひ》といふ勝野文平、灰色の壁に倚凭《よりかゝ》つて、銀之助と二人並んで話して居る様子。新しい艶のある洋服を着て、襟飾《えりかざり》の好みも煩《うるさ》くなく、すべて適《ふさ》はしい風俗の中《うち》に、人を吸引《ひきつ》ける敏捷《すばしこ》いところがあつた。美しく撫付《なでつ》けた髪の色の黒さ。頬の若々しさ。それに是男の鋭い眼付は絶えず物を穿鑿《せんさく》するやうで、一時《いつとき》も静息《やす》んでは居られないかのやう。これを銀之助の五分刈頭、顔の色赤々として、血肥りして、形《なり》も振《ふり》も関はず腕捲《うでまく》りし乍ら、談《はな》したり笑つたりする肌合に比べたら、其二人の相違は奈何《どんな》であらう。物見高い女教師連の視線はいづれも文平の身に集つた。
 丑松は文平の瀟洒《こざつぱり》とした風采《なりふり》を見て、別に其を羨む気にもならなかつた。たゞ気懸りなのは、彼《あの》新教員が自分と同じ地方から来たといふことである。小諸《こもろ》辺の地理にも委敷《くはしい》様子から押して考へると、何時《いつ》何処で瀬川の家の話を聞かまいものでもなし、広いやうで狭い世間の悲しさ、あの『お頭』は今これ/\だと言ふ人でもあつた日には――無論今となつて其様《そん》なことを言ふものも有るまいが――まあ万々一――それこそ彼《あの》教員も聞捨てには為《し》まい。斯う丑松は猜疑深《うたがひぶか》く推量して、何となく油断がならないやうに思ふのであつた。不安な丑松の眼《まなこ》には種々《さま/″\》な心配の種が映つて来たのである。
 軈て校長は役場から来た金の調べを終つた。それ/″\分配するばかりになつたので、丑松は校長を助けて、人々の机の上に十月分の俸給を載せてやつた。
『土屋君、さあ御土産。』
 と銀之助の前にも、五十銭づゝ封じた銅貨を幾本か並べて、外に銀貨の包と紙幣《さつ》とを添へて出した。
『おや/\、銅貨を沢山呉れるねえ。』と銀之助は笑つて、『斯様《こんな》にあつては持上がりさ
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