と風間さんは直に家の事情、家の事情だ。誰だつて家の事情のないものはありやしません。まあ、恩給のことなぞは絶念《あきら》めて、折角《せつかく》御静養なさるが可《いゝ》でせう。』
 斯う撥付《はねつ》けられては最早《もう》取付く島が無いのであつた。丑松は気の毒さうに敬之進の横顔を熟視《みまも》つて、
『どうです風間さん、貴方からも御願ひして見ては。』
『いえ、只今の御話を伺へば――別に――私から御願する迄も有ません。御言葉に従つて、絶念《あきら》めるより外は無いと思ひます。』
 其時小使が重たさうな風呂敷包を提げて役場から帰つて来た。斯《こ》のしらせを機《しほ》に、郡視学は帽子を執つて、校長に送られて出た。

       (四)

 男女の教員は広い職員室に集つて居た。其日は土曜日で、月給取の身にとつては反つて翌《あす》の日曜よりも楽しく思はれたのである。茲《こゝ》に集る人々の多くは、日々《にち/\》の長い勤務《つとめ》と、多数の生徒の取扱とに疲《くたぶ》れて、さして教育の事業に興味を感ずるでもなかつた。中には児童を忌み嫌ふやうなものもあつた。三種講習を済まして、及第して、漸《やうや》く煙草のむことを覚えた程の年若な準教員なぞは、まだ前途《さき》が長いところからして楽しさうにも見えるけれど、既に老朽と言はれて髭ばかり厳《いかめ》しく生えた手合なぞは、述懐したり、物羨みしたりして、外目《よそめ》にも可傷《いたは》しく思ひやられる。一月の骨折の報酬《むくい》を酒に代へる為、今茲に待つて居るやうな連中もあるのであつた。
 丑松は敬之進と一緒に職員室へ行かうとして、廊下のところで小使に出逢つた。
『風間先生、笹屋の亭主が御目に懸りたいと言つて、先刻《さつき》から来て待つて居りやす。』
 不意を打たれて、敬之進はさも苦々しさうに笑つた。
『何? 笹屋の亭主?』
 笹屋とは飯山の町はづれにある飲食店、農夫の為に地酒を暖めるやうな家《うち》で、老朽な敬之進が浮世を忘れる隠れ家といふことは、疾《とく》に丑松も承知して居た。けふ月給の渡る日と聞いて、酒の貸の催促に来たか、とは敬之進の寂しい苦笑《にがわらひ》で知れる。『ちよツ、学校まで取りに来なくてもよささうなものだ。』と敬之進は独語《ひとりごと》のやうに言つた。『いゝから待たして置け。』と小使に言含めて、軈《やが》て二人して職員室へと
前へ 次へ
全243ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング