自分との間には一種の関係があつて、それで面白くなくて引越すとでも思はれたら奈何《どう》しよう。あの愚痴な性質から、根彫葉刻《ねほりはほり》聞咎《きゝとが》めて、何故《なぜ》引越す、斯う聞かれたら何と返事をしたものであらう。そこがそれ、引越さなくても可《いゝ》ものを無理に引越すのであるから、何となく妙に気が咎《とが》める。下手なことを言出せば反つて藪蛇だ。『都合があるから引越す。』理由は其で沢山だ。斯う種々《いろ/\》に考へて、疑つたり恐れたりして見たが、多くの客を相手にする主婦の様子は左様《さう》心配した程でも無い。さうかうする中に、頼んで置いた車も来る。荷物と言へば、本箱、机、柳行李《やなぎがうり》、それに蒲団の包があるだけで、道具は一切一台の車で間に合つた。丑松は洋燈《ランプ》を手に持つて、主婦の声に送られて出た。
斯うして車の後に随《つ》いて、とぼ/\と二三町も歩いて来たかと思はれる頃、今迄の下宿の方を一寸振返つて見た時は、思はずホツと深い溜息を吐《つ》いた。道路《みち》は悪し、車は遅し、丑松は静かに一生の変遷《うつりかはり》を考へて、自分で自分の運命を憐み乍ら歩いた。寂しいとも、悲しいとも、可笑《をか》しいとも、何ともかとも名の附けやうのない心地《こゝろもち》は烈しく胸の中を往来し始める。追憶《おもひで》の情は身に迫つて、無限の感慨を起させるのであつた。それは十一月の近《ちかづ》いたことを思はせるやうな蕭条《せうでう》とした日で、湿つた秋の空気が薄い烟《けぶり》のやうに町々を引包んで居る。路傍《みちばた》に黄ばんだ柳の葉はぱら/\と地に落ちた。
途中で紙の旗を押立てた少年の一群《ひとむれ》に出遇つた。音楽隊の物真似、唱歌の勇しさ、笛太鼓も入乱れ、足拍子揃へて面白可笑しく歌つて来るのは何処の家《うち》の子か――あゝ尋常科の生徒だ。見れば其後に随いて、少年と一緒に歌ひ乍ら、人目も関はずやつて来る上機嫌の酔漢《さけよひ》がある。蹣跚《よろ/\》とした足元で直に退職の敬之進と知れた。
『瀬川君、一寸まあ見て呉れ給へ――是が我輩の音楽隊さ。』
と指《ゆびさ》し乍ら熟柿《じゆくし》臭《くさ》い呼吸《いき》を吹いた。敬之進は何処かで飲んで来たものと見える。指された少年の群は一度にどつと声を揚げて、自分達の可傷《あはれ》な先生を笑つた。
『始めえ――』敬之進は戯れに指
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