りて、赤々と鮮明《あざやか》に読まれる自分の認印の上へ、右からも左からも墨黒々と引いた。
『斯うして置きさへすれば大丈夫。』――丑松の積りは斯うであつた。彼の心は暗かつたのである。思ひ迷ふばかりで、実は奈何《どう》していゝか解らなかつたのである。古本屋を出て、自分の為《し》たことを考へ乍ら歩いた時は、もう哭《な》きたい程の思に帰つた。
『先生、先生――許して下さい。』
と幾度か口の中で繰返した。其時、あの高柳に蓮太郎と自分とは何の関係も無いと言つたことを思出した。鋭い良心の詰責《とがめ》は、身を衛《まも》る余儀なさの弁解《いひわけ》と闘つて、胸には刺されるやうな深い/\悲痛《いたみ》を感ずる。丑松は羞《は》ぢたり、畏《おそ》れたりしながら、何処へ行くといふ目的《めあて》も無しに歩いた。
(五)
一ぜんめし、御酒肴《おんさけさかな》、笹屋、としてあるは、かねて敬之進と一緒に飲んだところ。丑松の足は自然とそちらの方へ向いた。表の障子を開けて入ると、そここゝに二三の客もあつて、飲食《のみくひ》して居る様子。主婦《かみさん》は流許《ながしもと》へ行つたり、竈《かまど》の前に立つたりして、多忙《いそが》しさうに尻端折《しりはしをり》で働いて居た。
『主婦《かみ》さん、何か有ますか。』
斯《か》う丑松は声を掛けた。主婦は煤《すゝ》けた柱の傍に立つて、手を拭《ふ》き乍《なが》ら、
『生憎《あいにく》今日《こんち》は何《なんに》も無くて御気の毒だいなあ。川魚の煮《た》いたのに、豆腐の汁《つゆ》ならごはす。』
『そんなら両方貰ひませう。それで一杯飲まして下さい。』
其時、一人の行商が腰掛けて居た樽《たる》を離れて、浅黄の手拭で頭を包み乍ら、丑松の方を振返つて見た。雪靴の儘《まゝ》で柱に倚凭《よりかゝ》つて居た百姓も、一寸盗むやうに丑松を見た。主婦《かみさん》が傾《かし》げた大徳利の口を玻璃杯《コップ》に受けて、茶色に気《いき》の立つ酒をなみ/\と注いで貰ひ、立つて飲み乍ら、上目で丑松を眺める橇曳《そりひき》らしい下等な労働者もあつた。斯ういふ風に、人々の視線が集まつたのは、兎《と》に角《かく》毛色の異《かは》つた客が入つて来た為、放肆《ほしいまゝ》な雑談を妨《さまた》げられたからで。尤《もつと》も斯《こ》の物見高い沈黙は僅かの間であつた。やがて復《ま》た盛ん
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