《だあれ》も居ないやうな処へ行つて大きな声を出して泣いて見たいのツて――まあ、奈何《どう》して其様な気になるだらず。』
 斯う言つて、省吾は小首を傾《かし》げて、一寸口笛吹く真似をした。
 間も無く省吾は出て行つた。丑松は唯|単独《ひとり》になつた。急に本堂の内部《なか》は※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》として、種々《さま/″\》の意味ありげな装飾が一層無言のなかに沈んだやうに見える。深い天井の下に、いつまでも変らずにある真鍮《しんちゆう》の香炉、花立、燈明皿――そんな性命《いのち》の無い道具まで、何となく斯う寂寞《じやくまく》な瞑想《めいさう》に耽つて居るやうで、仏壇に立つ観音《くわんおん》の彫像は慈悲といふよりは寧《むし》ろ沈黙の化身《けしん》のやうに輝いた。斯ういふ静寂《しづか》な、世離れたところに立つて、其人のことを想《おも》ひ浮べて見ると、丁度古蹟を飾る花草のやうな気がする。丑松は、血の湧く思を抱き乍ら、円い柱と柱との間を往つたり来たりした。
『お志保さん、お志保さん。』
 あてども無く口の中で呼んで見たのである。
 いつの間には四壁《そこいら》は暗くなつて来た。青白い黄昏時《たそがれどき》の光は薄明く障子に映つて、本堂の正面の方から射しこんだので、柱と柱との影は長く畳の上へ引いた。倦《う》み、困《くるし》み、疲れた冬の一日《ひとひ》は次第に暮れて行くのである。其時|白衣《びやくえ》を着けた二人の僧が入つて来た。一人は住職、一人は寺内の若僧であつた。灯《あかし》は奥深く点《つ》いて、あそこにも、こゝにも、と見て居るうちに、六挺ばかりの蝋燭《らふそく》が順序よく並んで燃《とぼ》る。仏壇を斜に、内陣の角のところに座を占めて、金泥《きんでい》の柱の側に掌《て》を合はせたは、住職。一段低い外陣に引下つて、反対の側にかしこまつたは、若僧。やがて鉦《かね》の音が荘厳《おごそか》に響き渡る。合唱の声は起つた。
『なむからかんのう、とらやあ、やあ――』
 宵《よひ》の勤行《おつとめ》が始つたのである。
 あゝ、寂しい夕暮もあればあるもの。丑松は北の間の柱に倚凭《よりかゝ》り乍ら、目を瞑《つぶ》り、頭をつけて、深く/\思ひ沈んで居た。『若《も》し自分の素性がお志保の耳に入つたら――』其を考へると、つく/″\穢多の生命《いのち》の味気なさを感ずる。漠然とした
前へ 次へ
全243ページ中149ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング