、今御帰り?』
斯う丑松は言葉を掛けた。
『はあ。』と省吾は笑つて、『私《わし》も後刻《あと》で蓮華寺へ行きやすよ、姉さんが来ても可《いゝ》と言ひやしたから。』
『むゝ――今夜は御説教があるんでしたツけねえ。』
と思出したやうに言つた。暫時《しばらく》丑松は可懐《なつか》しさうに、駈出して行く省吾の後姿を見送りながら立つた。雪の大路の光景《ありさま》は、丁度、眼前《めのまへ》に展《ひら》けて、用事ありげな人々が往つたり来たりして居る。急に烈しい眩暈《めまひ》に襲《おそ》はれて、丑松は其処へ仆《たふ》れかゝりさうに成つた。其時、誰か斯《か》う背後《うしろ》から追迫つて来て、自分を捕《つかま》へようとして、突然《だしぬけ》に『やい、調里坊《てうりツぱう》』とでも言ふかのやうに思はれた。斯う疑へば恐しくなつて、背後を振返つて見ずには居られなかつたのである――あゝ、誰が其様なところに居よう。丑松は自分を嘲《あざけ》つたり励ましたりした。
第拾五章
(一)
酷烈《はげ》しい、犯し難い社会《よのなか》の威力《ちから》は、次第に、丑松の身に迫つて来るやうに思はれた。学校から帰へつて、蓮華寺の二階へ上つた時も、風呂敷包をそこへ投出《はふりだ》す、羽織袴を脱捨てる、直に丑松は畳の上に倒れて、放肆《ほしいまゝ》な絶望に埋没《うづも》れるの外は無かつた。眠るでも無く、考へるでも無く、丁度無感覚な人のやうに成つて、長いこと身動きも為《せ》ずに居たが、軈《やが》て起直つて部屋の内を眺め廻した。
楽しさうな笑声が、蔵裏《くり》の下座敷の方から、とぎれ/\に聞えた。聞くとも無しに聞耳を立てると、其日も亦《ま》た文平がやつて来て、人々を笑はせて居るらしい。あの邪気《あどけ》ない、制《おさ》へても制へきれないやうな笑声は、と聞くと、省吾は最早《もう》遊びに来て居るものと見える。時々若い女の声も混つた――あゝ、お志保だ。斯《か》う聞き澄まして、丑松は自分の部屋の内を歩いて見た。
『先生。』
と声を掛けて、急に入つて来たのは省吾である。
丁度、階下《した》では茶を入れたので、丑松にも話しに来ないか、と省吾は言付けられて来た。聞いて見ると、奥様やお志保は下座敷に集つて、そこへ庄馬鹿までやつて来て居る。可笑《をか》しい話が始つたので、人々は皆な笑ひ転げて、中にはもう泣
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