いたものが有るとのこと。
『あの、勝野先生も来て居なさりやすよ。』
 と省吾は添付《つけた》して言つた。
『左様《さう》? 勝野君も?』と丑松は徴笑み乍ら答へた。遽然《にはかに》、心の底から閃めいたやうに、憎悪《にくしみ》の表情が丑松の顔に上つた。尤《もつと》も直に其は消えて隠れて了つたのである。
『さあ――私《わし》と一緒に早く来なされ。』
『今直に後から行きますよ。』
 とは言つたものゝ、実は丑松は行きたくないのであつた。『早く』を言ひ捨てゝ、ぷいと省吾は出て行つて了つた。
 楽しさうな笑声が、復《ま》た、起つた。蔵裏の下座敷――それはもう目に見ないでも、斯《か》うして声を聞いたばかりで、人々の光景《ありさま》が手に取るやうに解る。何もかも丑松は想像することが出来た。定めし、奥様は何か心に苦にすることがあつて、其を忘れる為にわざ/\面白|可笑《をか》しく取做《とりな》して、それで彼様《あん》な男のやうな声を出して笑ふのであらう。定めし、お志保は部屋を出たり入つたりして、茶の道具を持つて来たり、其を入れて人々に薦《すゝ》めたり、又は奥様の側に倚添《よりそ》ひ乍ら談話《はなし》を聞いて微笑《ほゝゑ》んで居るのであらう。定めし、文平は婦人《をんな》子供《こども》と見て思ひ侮《あなど》つて、自分独りが男ででも有るかのやうに、可厭《いや》に容子《ようす》を売つて居ることであらう。嘸《さぞ》。そればかりでは無い、必定《きつと》また人のことを何とかかんとか――あゝ、あゝ、素性《うまれ》が素性なら、誰が彼様な男なぞの身の上を羨まう。
 現世の歓楽を慕ふ心は、今、丑松の胸を衝いてむら/\と湧き上つた。捨てられ、卑《いや》しめられ、爪弾《つまはじ》きせられ、同じ人間の仲間入すら出来ないやうな、つたない同族の運命を考へれば考へるほど、猶々《なほ/\》斯の若い生命《いのち》が惜まるゝ。
『何故、先生は来なさらないですか。』
 斯《か》う言ひ乍ら、軈《やが》て復《ま》た迎へにやつて来たのは省吾である。
 あまり邪気《あどけ》ないことを言つて督促《せきた》てるので、丑松は斯の少年を慫慂《そゝの》かして、いつそ本堂の方へ連れて行かうと考へた。部屋を出て、楼梯《はしごだん》を下りると、蔵裏から本堂へ通ふ廊下は二つに別れる。裏庭に近い方を行けば、是非とも下座敷の側を通らなければならない。其処には
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