二時から三時まで、それだけは丑松も自由であつたので、不図、蓮太郎のことが書いてあつたとかいふ昨日の銀之助の話を思出して、応接室を指して急いで行つた。いつも其机の上には新聞が置いてある。戸を開けて入つて見ると、信毎は一昨日の分も残つて、まだ綴込みもせずに散乱《とりちら》した儘。その読みふるしを開けた第二面の下のところに、彼の先輩のことを見つけた時は、奈何《どんな》に丑松も胸を踊らせて、『むゝ――あつた、あつた』と驚き喜んだらう。
『何処へ行つて是《この》新聞を読まう。』先づ心に浮んだは斯うである。『斯《こ》の応接室で読まうか。人が来ると不可《いけない》。教室が可《いゝ》か。小使部屋が可か――否、彼処へも人が来ないとは限らない。』と思ひ迷つて、新聞紙を懐に入れて、応接室を出た。『いつそ二階の講堂へ行つて読め。』斯う考へて、丑松は二階へ通ふ階段を一階づゝ音のしないやうに上つた。
そこは天長節の式場に用ひられた大広間、長い腰掛が順序よく置並べてあるばかり、平素《ふだん》はもう森閑《しんかん》としたもので、下手な教室の隅なぞよりは反つて安全な場処のやうに思はれた。とある腰掛を択《えら》んで、懐から取出して読んで居るうちに、いつの間にか彼の高柳との間答――『懇意でも有ません、関係は有ません、何にも私は知りません』と三度迄も心を偽つて、師とも頼み恩人とも思ふ彼の蓮太郎と自分とは、全く、赤の他人のやうに言消して了つたことを思出した。『先生、許して下さい。』斯《か》う詑《わ》びるやうに言つて、軈《やが》て復《ま》た新聞を取上げた。
漠然《ばくぜん》とした恐怖《おそれ》の情は絶えず丑松の心を刺激して、先輩に就いての記事を読み乍らも、唯もう自分の一生のことばかり考へつゞけたのであつた。其から其へと辿つて反省すると、丑松は今、容易ならぬ位置に立つて居るといふことを感ずる。さしかゝつた斯の大きな問題を何とか為なければ――左様《さう》だ、何とか斯《こ》の思想《かんがへ》を纏めなければ、一切の他の事は手にも着かないやうに思はれた。
『さて――奈何《どう》する。』
斯う自分で自分に尋ねた時は、丑松はもう茫然《ばうぜん》として了《しま》つて、其答を考へることが出来なかつた。
『瀬川君、何を君は御読みですか。』
と唐突《だしぬけ》に背後《うしろ》から声を掛けた人がある。思はず丑松は顔色を変へた
前へ
次へ
全243ページ中143ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング