謂《いはゆる》穢多町です。叔父の話によりますと、彼処は全町同じ苗字を名乗つて居るといふことでしたツけ。其苗字が、確か瀬川でしたツけ。』
『成程ねえ。』
『今でも向町の手合は苗字を呼びません。普通に新平民といへば名前を呼捨です。おそらく明治になる前は、苗字なぞは無かつたのでせう。それで、戸籍を作るといふ時になつて、一村|挙《こぞ》つて瀬川と成つたんぢや有るまいかと思ふんです。』
『一寸待ちたまへ。瀬川君は小諸の人ぢや無いでせう。小県《ちひさがた》の根津の人でせう。』
『それが宛《あて》になりやしません――兎に角、瀬川とか高橋とかいふ苗字が彼《あ》の仲間に多いといふことは叔父から聞きました。』
『左様言はれて見ると、我輩も思当ることが無いでも無い。しかしねえ、もし其が事実だとすれば、今迄知れずに居る筈も無からうぢやないか。最早《もう》疾《とつく》に知れて居さうなものだ――師範校に居る時代に、最早知れて居さうなものだ。』
『でせう――それそこが瀬川君です。今日《こんにち》まで人の目を暗《くらま》して来た位の智慧《ちゑ》が有るんですもの、余程|狡猾《かうくわつ》の人間で無ければ彼《あ》の真似は出来やしません。』
『あゝ。』と校長は嘆息して了つた。『それにしても、よく知れずに居たものさ、どうも瀬川君の様子がをかしい/\と思つたよ――唯、訳も無しに、彼様《あゝ》考へ込む筈《はず》が無いからねえ。』
 急に大鈴の音が響き渡つた。二人は壁を離れて、長い廊下を歩き出した。午後の課業が始まると見え、男女の生徒は上草履鳴らして、廊下の向ふのところを急いで通る。丑松も少年の群に交り乍ら、一寸|是方《こちら》を振向いて見て行つた。
『勝野君。』と校長は丑松の姿を見送つて、『成程《なるほど》、君の言つた通りだ。他《ひと》の一生の名誉にも関はることだ。まあ、もうすこし瀬川君の秘密を探つて見ることに為《し》ようぢやないか。』
『しかし、校長先生。』と文平は力を入れて言つた。『是話が彼の代議士の候補者から出たといふことだけは決して他《ひと》に言はないで置いて下さい――さもないと、私が非常に迷惑しますから。』
『無論さ。』

       (四)

 時間表によると、其日の最終《をはり》の課業が唱歌であつた。唱歌の教師は丑松から高等四年の生徒を受取つて、足拍子揃へさして、自分の教室の方へ導いて行つた。
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