るのが羨ましくも思はれた。
 其時になつて丑松も明《あきらか》に自分の位置を認めることが出来た。敬慕も、同情も、すべて彼の先輩に対して起る心の中のやるせなさは――自分も亦た同じやうに、『穢多である』といふ切ない事実から湧上るので。其秘密を蔵《かく》して居る以上は、仮令《たとひ》口の酸くなるほど他の事を話したところで、自分の真情が先輩の胸に徹《こた》へる時は無いのである。無理もない。あゝ、あゝ、其を告白《うちあ》けて了つたなら、奈何《どんな》に是胸の重荷が軽くなるであらう。奈何に先輩は驚いて、自分の手を執つて、『君も左様《さう》か』と喜んで呉れるであらう。奈何に二人の心と心とがハタと顔を合せて、互ひに同じ運命を憐むといふ其深い交際《まじはり》に入るであらう。
 左様《さう》だ――せめて彼の先輩だけには話さう。斯う考へて、丑松は楽しい再会の日を想像して見た。

       (三)

 田中の停車場《ステーション》へ着いた頃は日暮に近かつた。根津村へ行かうとするものは、こゝで下りて、一里あまり小県《ちひさがた》の傾斜を上らなければならない。
 丑松が汽車から下りた時、高柳も矢張同じやうに下りた。流石《さすが》代議士の候補者と名乗る丈あつて、風采《おしだし》は堂々とした立派なもの。権勢と奢侈とで饑《う》ゑたやうな其姿の中には、何処《どこ》となく斯《か》う沈んだところもあつて、時々盗むやうに是方《こちら》を振返つて見た。成るべく丑松を避けるといふ風で、顔を合すまいと勉めて居ることは、いよ/\其|素振《そぶり》で読めた。『何処へ行《いく》のだらう、彼男は。』と見ると、高柳は素早く埒《らち》を通り抜けて、引隠れる場処を欲しいと言つたやうな具合に、旅人の群に交つたのである。深く外套に身を包んで、人目を忍んで居るさへあるに、出迎への人々に取囲《とりま》かれて、自分と同じ方角を指して出掛けるとは。
 北国街道を左へ折れて、桑畠《くはばたけ》の中の細道へ出ると、最早《もう》高柳の一行は見えなかつた。石垣で積上げた田圃と田圃との間の坂路を上るにつれて、烏帽子《ゑぼし》山脈の大傾斜が眼前《めのまへ》に展けて来る。広野、湯の丸、籠の塔、または三峯《さんぽう》、浅間の山々、其他ところ/″\に散布する村落、松林――一つとして回想《おもひで》の種と成らないものはない。千曲川《ちくまがは》は遠く谷底
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