健康《たつしや》な幸福者《しあはせもの》の多い中に、斯ういふ人々ばかりで取囲《とりま》かれる蓮太郎の嬉《うれ》しさ。殊に丑松の同情《おもひやり》は言葉の節々にも表れて、それがまた蓮太郎の身に取つては、奈何《どんな》にか胸に徹《こた》へるといふ様子であつた。其時細君は籠の中に入れてある柿を取出した。それは汽車の窓から買取つたもので、其色の赤々としてさも甘さうに熟したやつを、択《よ》つて丑松にも薦《すゝ》め、弁護士にも薦めた。蓮太郎も一つ受取つて、秋の果実《このみ》のにほひを嗅《か》いで見乍《みなが》ら、さて種々《さま/″\》な赤倉温泉の物語をした。越後の海岸まで旅したことを話した。蓮太郎は又、東京の市場で売られる果実《くだもの》なぞに比較して、この信濃路の柿の新しいこと、甘いことを賞めちぎつて話した。
駅々で車の停る毎に、農夫の乗客が幾群か入込んだ。今は室の内も放肆《ほしいまゝ》な笑声と無遠慮な雑談とで満さるゝやうに成つた。それに、東海道沿岸などの鉄道とは違ひ、この荒寥《くわうれう》とした信濃路のは、汽車までも旧式で、粗造で、山家風だ。其列車が山へ上るにつれて、窓の玻璃《ガラス》に響いて烈しく動揺する。終《しまひ》には談話《はなし》も能《よ》く聞取れないことがある。油のやうに飯山あたりの岸を浸す千曲川の水も、見れば大な谿流の勢に変つて、白波を揚げて谷底を下るのであつた。濃く青く清々とした山気は窓から流込んで、次第に高原へ近《ちかづ》いたことを感ぜさせる。
軈《やが》て、汽車は上田へ着いた。旅人は多くこの停車場《ステーション》で下りた。蓮太郎も、妻君も、弁護士も。『瀬川君、いづれそれでは根津で御目に懸ります――失敬。』斯《か》う言つて、再会を約して行く先輩の後姿を、丑松は可懐《なつか》しさうに見送つた。
急に室の内は寂しくなつたので、丑松は冷い鉄の柱に靠《もた》れ乍ら、眼を瞑《つむ》つて斯《こ》の意外な邂逅《めぐりあひ》を思ひ浮べて見た。慾を言へば、何となく丑松は物足りなかつた。彼程《あれほど》打解けて呉れて、彼程隔ての無い言葉を掛けられても、まだ丑松は何処かに冷淡《よそ/\》しい他人行儀なところがあると考へて、奈何《どう》して是程の敬慕の情が彼の先輩の心に通じないのであらう、と斯う悲しくも情なくも思つたのである。嫉《ねた》むでは無いが、彼《か》の老紳士の親しくす
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