れて、暫時《しばらく》茫然《ぼんやり》として突立つた儘《まゝ》、丑松の顔を眺めたり、死去の報告《しらせ》を繰返して見たりした。軈《やが》て銀之助は思ひついたやうに、
『むゝ、根津には君の叔父さんがあると言つたツけねえ。左様《さう》いふ叔父さんが有れば、万事見ては呉れたらう。しかし気の毒なことをした。なにしろ、まあ早速帰る仕度をしたまへ。学校の方は、君、奈何《どう》にでも都合するから。』
斯う言つて呉れる友達の顔には真実が輝き溢《あふ》れて居た。たゞ銀之助は一語《ひとこと》も昨夜のことを言出さなかつたのである。『死は事実だ――不思議でも何でも無い』と斯《こ》の若い植物学者は眼で言つた。
校長は時刻を違《たが》へず出勤したので、早速この報知《しらせ》を話した。丑松は直にこれから出掛けて行きたいと話した。留守中何分|宜敷《よろしく》、受持の授業のことは万事銀之助に頼んで置いたと話した。
『奈何《どんな》にか君も吃驚《びつくり》なすつたでせう。』と校長は忸々敷《なれ/\しい》調子で言つた。『学校の方は君、土屋君も居るし、勝野君も居るし、其様《そん》なことはもう少許《すこし》も御心配なく。実に我輩も意外だつた、君の父上《おとつ》さんが亡《な》くならうとは。何卒《どうか》、まあ、彼方《あちら》の御用も済み、忌服《きぶく》でも明けることになつたら、また学校の為に十分御尽力を願ひませう。吾儕《われ/\》の事業《しごと》が是丈《これだけ》に揚つて来たのも、一つは君の御骨折からだ。斯うして君が居て下さるんで、奈何《どんな》にか我輩も心強いか知れない。此頃《こなひだ》も或処で君の評判を聞いて来たが、何だか斯う我輩は自分を褒められたやうな心地《こゝろもち》がした。実際、我輩は君を頼りにして居るのだから。』と言つて気を変へて、『それにしても、出掛けるとなると、思つたよりは要《かゝ》るものだ。少許位《すこしぐらゐ》は持合せも有ますから、立替へて上げても可《いゝ》のですが、どうです少許《すこし》御持ちなさらんか。もし御入用《おいりよう》なら遠慮なく言つて下さい。足りないと、また困りますよ。』
と言ふ校長の言葉はいかにも巧みであつた。しかし丑松の耳には唯わざとらしく聞えたのである。
『瀬川君、それでは届を忘れずに出して行つて下さい――何も規則ですから。』
斯う校長は添加《つけた》して言つた
前へ
次へ
全243ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング