。』と文平は返事に困つた。
『生徒を御覧なさい――瀬川先生、瀬川先生と言つて、瀬川君ばかり大騒ぎしてる。彼様《あんな》に大騒ぎするのは、瀬川君の方で生徒の機嫌を取るからでせう? 生徒の機嫌を取るといふのは、何か其処に訳があるからでせう? 勝野君、まあ君は奈何《どう》思ひます。』
『今の御話は私に克《よ》く解りません。』
『では、君、斯う言つたら――これはまあ是限《これぎ》りの御話なんですがね、必定《きつと》瀬川君は斯の学校を取らうといふ野心があるに相違《ちがひ》ないんです。』
『はゝゝゝゝ、まさか其程にも思つて居ないでせう。』と笑つて、文平は校長の顔を熟視《みまも》つた。
『でせうか?』と校長は疑深く、『思つて居ないでせうか?』
『だつて、未《ま》だ其様《そん》なことを考へるやうな年齢《とし》ぢや有ません――瀬川君にしろ、土屋君にしろ、未だ若いんですもの。』
 この『若いんですもの』が校長を嘆息させた。庭で遊ぶ庭球《テニス》の球の音はおもしろく窓の玻璃《ガラス》に響いた。また一勝負始まつたらしい。思はず文平は聞耳を立てた。その文平の若々しい顔付を眺めると、校長は更に嘆息して、
『一体、瀬川君なぞは奈何《どう》いふことを考へて居るんでせう。』
『奈何いふことゝは?』と文平は不思議さうに。
『まあ、近頃の瀬川君の様子を見るのに、非常に沈んで居る――何か斯う深く考へて居る――新しい時代といふものは彼様《あゝ》物を考へさせるんでせうか。どうも我輩には不思議でならない。』
『しかし、瀬川君の考へて居るのは、何か別の事でせう――今、先生の仰つたやうな、其様《そん》な事ぢや無いでせう。』
『左様《さう》なると、猶々《なほ/\》我輩には解釈が付かなくなる。どうも我輩の時代に比べると、瀬川君なぞの考へて居ることは全く違ふやうだ。我輩の面白いと思ふことを、瀬川君なぞは一向詰らないやうな顔してる。我輩の詰らないと思ふことを、反つて瀬川君なぞは非常に面白がつてる。畢竟《つまり》一緒に事業《しごと》が出来ないといふは、時代が違ふからでせうか――新しい時代の人と、吾儕《われ/\》とは、其様《そんな》に思想《かんがへ》が合はないものなんでせうか。』
『ですけれど、私なぞは左様《さう》思ひません。』
『そこが君の頼母《たのも》しいところさ。何卒《どうか》、君、彼様《あゝ》いふ悪い風潮に染まないやう
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