御演説ですか。』と文平が打球板《ラッケット》を膝の上に載せて、『いや、非常に面白く拝聴《うかゞ》ひました。』
『左様《さう》ですかねえ――少許《すこし》は聞きごたへが有ましたかねえ。』
『御世辞でも何でも無いんですが、今迄私が拝聴《うかゞ》つた中《うち》では、先《ま》づ第一等の出来でしたらう。』
『左様《さう》言つて呉れる人があると難有《ありがた》い。』と校長は微笑み乍ら、『実は彼《あ》の演説をするために、昨夜《ゆうべ》一晩かゝつて準備《したく》しましたよ。忠孝といふ字義の解釈は奈何《どう》聞えました。我輩の積りでは、あれでも余程|頭脳《あたま》を痛めたのさ。種々《いろ/\》な字典を参考するやら、何やら――そりやあもう、君。』
『どうしても調べたものは調べた丈のことが有ます。』
『しかし、真実《ほんたう》に聞いて呉れた人は君くらゐのものだ。町の人なぞは空々寂々――いや、実際、耳を持たないんだからねえ。中には、高柳の話に酷《ひど》く感服してる人がある。彼様《あん》な演説屋の話と、吾儕《われ/\》の言ふことゝを、一緒にして聞かれて堪《たま》るものかね。』
『どうせ解らない人には解らないんですから。』
と文平に言はれて、不平らしい校長の顔付は幾分《いくら》か和《やはら》いで来た。
其時迄、校長は何か言ひたいことがあつて、それを言はないで、反《かへ》つて斯《か》ういふ談話《はなし》をして居るといふ風であつたが、軈《やが》て思ふことを切出した。わざ/\文平を呼留めて斯室へ連れて来たのは、どうかして丑松を退ける工夫は無いか、それを相談したい下心であつたのである。『と云ふのはねえ、』と校長は一段声を低くした。『瀬川君だの、土屋君だの、彼様《あゝ》いふ異分子が居ると、どうも学校の統一がつかなくて困る。尤《もつと》も土屋君の方は、農科大学の助手といふことになつて、遠からず出掛けたいやうな話ですから――まあ斯人《このひと》は黙つて居ても出て行く。難物は瀬川君です。瀬川君さへ居なくなつて了へば、後は君、もう吾儕《われ/\》の天下さ。どうかして瀬川君を廃《よ》して、是非其後へは君に座《すわ》つて頂きたい。実は君の叔父さんからも種々《いろ/\》御話が有ましたがね、叔父さんも矢張《やつぱり》左様《さう》いふ意見なんです。何とか君、巧《うま》い工夫はあるまいかねえ。』
『左様《さう》ですなあ
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