き
誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる
暦《こよみ》もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて汐《うしほ》となりにけり
遠く湧きくる海の音《おと》
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音《ね》は
まだうらわかき野路の鳥
嗚呼めづらしのしらべぞと
聲のゆくへをたづぬれば
緑の羽《はね》もまだ弱き
それも初音か鶯の
春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の上《へ》に
春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の邊《べ》に
磯邊に高き大巖《おほいは》の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらむ東雲《しののめ》の
潮《しほ》の音《ね》遠き朝ぼらけ
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二つの聲
朝
たれか聞くらむ朝の聲
眠《ねむり》と夢を破りいで
彩《あや》なす雲にうちのりて
よろづの鳥に歌はれつ
天のかなたにあらはれて
東の空に光《ひかり》あり
そこに時《とき》あり始《はじめ》あり
そこに道《みち》あり力《ちから》あり
そこに色あり詞《ことば》あり
そこに聲あり命《いのち》あり
そこに名ありとうたひつゝ
みそらにあがり地にかけり
のこんの星ともろともに
光《ひかり》のうちに朝ぞ隱るゝ
暮
たれか聞くらむ暮の聲
霞の翼《つばさ》雲の帶
煙の衣《ころも》露の袖
つかれてなやむあらそひを
闇のかなたに投《な》げ入れて
夜《よる》の使《つかひ》の蝙蝠の
飛ぶ間《ま》も聲のをやみなく
こゝに影あり迷《まよひ》あり
こゝに夢あり眠《ねむり》あり
こゝに闇あり休息《やすみ》あり
こゝに永きあり遠きあり
こゝに死《し》ありとうたひつゝ
草木《くさき》にいこひ野にあゆみ
かなたに落つる日とともに
色なき闇に暮ぞ隱るゝ
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松島瑞巖寺に遊びて
舟路《ふなぢ》も遠し瑞巖寺《ずゐがんじ》
冬逍遙《ふゆぜうえう》のこゝろなく
古き扉に身をよせて
飛騨の名匠《たくみ》の浮彫《うきぼり》の
葡萄のかげにきて見れば
菩提の寺の冬の日に
刀《かたな》悲《かな》しみ鑿《のみ》愁《うれ》ふ
ほられて薄き葡萄葉の
影にかくるゝ栗鼠《きねずみ》よ
姿ばかりは隱すとも
かくすよしなし鑿《のみ》の香《か》は
うしほにひゞく磯寺の
かねにこの日の暮るゝとも
夕闇《ゆふやみ》かけてたゝずめば
こひしきやなぞ甚五郎
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春
一 たれかおもはむ
たれかおもはむ鶯の
涙もこほる冬の日に
若き命は春の夜の
花にうつろふ夢の間《ま》と
あゝよしさらば美酒《うまざけ》に
うたひあかさん春の夜を
梅のにほひにめぐりあふ
春を思へばひとしれず
からくれなゐのかほばせに
流れてあつきなみだかな
あゝよしさらば花影に
うたひあかさむ春の夜を
わがみひとつもわすられて
おもひわづらふこゝろだに
春のすがたをとめくれば
たもとににほふ梅の花
あゝよしさらば琴の音に
うたひあかさむ春の夜を
二 あけぼの
紅《くれなゐ》細くたなびける
雲とならばやあけぼのの
雲とならばや
やみを出でては光ある
空とならばやあけぼのの
空とならばや
春の光を彩《いろど》れる
水とならばやあけぼのの
水とならばや
鳩に履まれてやはらかき
草とならばやあけぼのの
草とならばや
三 春は來ぬ
春はきぬ
春はきぬ
初音やさしきうぐひすよ
こぞに別離《わかれ》を告げよかし
谷間に殘る白雪よ
葬りかくせ去歳《こぞ》の冬
春はきぬ
春はきぬ
さみしくさむくことばなく
まづしくくらくひかりなく
みにくくおもくちからなく
かなしき冬よ行きねかし
春はきぬ
春はきぬ
淺みどりなる新草《にひぐさ》よ
とほき野面《のもせ》を畫《ゑが》けかし
さきては紅《あか》き春花《はるばな》よ
樹々《きゞ》の梢を染めよかし
春はきぬ
春はきぬ
霞よ雲よ動《ゆる》ぎいで
氷れる空をあたゝめよ
花の香《か》おくる春風よ
眠れる山を吹きさませ
春はきぬ
春はきぬ
春をよせくる朝汐《あさじほ》よ
蘆の枯葉《かれは》を洗ひ去れ
霞に醉へる雛鶴よ
若きあしたの空に飛べ
春はきぬ
春はきぬ
うれひの芹の根は絶えて
氷れるなみだ今いづこ
つもれる雪の消えうせて
けふの若菜と萌えよかし
四 眠れる春よ
ねむれる春ようらわかき
かたちをかくすことなかれ
たれこめてのみけふの日を
なべてのひとのすぐすまに
さめての春のすがたこそ
また夢のまの風情なれ
ねむげの春よさめよ春
さかしきひとのみざるまに
若紫の朝霞
かすみの袖をみにまとへ
はつねうれしきうぐひすの
鳥のしらべをうたへかし
ねむげの春よさめよ春
ふゆのこほりにむすぼれし
ふるきゆめぢをさめいでて
やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ
ねむげの春よさめよ春
あゆめばたにの早《さ》わらびの
したもえいそぐ汝《な》があしを
たかくもあげよあゆめ春
たえなるはるのいきを吹き
こぞめの梅の香ににほへ
五 うてや鼓
うてや鼓の春の音
雪にうもるゝ冬の日の
かなしき夢はとざされて
世は春の日とかはりけり
ひけばこぞめの春霞
かすみの幕をひきとぢて
花と花とをぬふ絲は
けさもえいでしあをやなぎ
霞のまくをひきあけて
春をうかがふことなかれ
はなさきにほふ蔭をこそ
春の臺《うてな》といふべけれ
小蝶よ花にたはふれて
優しき夢をみては舞ひ
醉うて羽袖もひら/\と
はるの姿をまひねかし
緑のはねのうぐひすよ
梅の花笠ぬひそへて
ゆめ靜なるはるの日の
しらべを高く歌へかし
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明星
浮べる雲と身をなして
あしたの空に出でざれば
などしるらめや明星の
光の色のくれなゐを
朝の潮《うしほ》と身をなして
流れて海に出でざれば
などしるらめや明星の
清《す》みて哀《かな》しききらめきを
なにかこひしき曉星《あかぼし》の
空《むな》しき天《あま》の戸を出でて
深くも遠きほとりより
人の世近く來《きた》るとは
潮《うしほ》の朝のあさみどり
水底《みなそこ》深き白石を
星の光に透《す》かし見て
朝《あさ》の齡《よはひ》を數ふべし
野の鳥ぞ啼く山河《やまかは》も
ゆふべの夢をさめいでて
細く棚引くしのゝめの
姿をうつす朝ぼらけ
小夜《さよ》には小夜のしらべあり
朝には朝の音《ね》もあれど
星の光の絲《いと》の緒《を》に
あしたの琴は靜《しづか》なり
まだうら若き朝の空
きらめきわたる星のうち
いちいと若き光をば
名《なづ》けましかば明星と
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潮音
わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね
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おえふ
處女《をとめ》ぞ經《へ》ぬるおほかたの
われは夢路《ゆめぢ》を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河《やまかは》をながむれば
水《みづ》靜《しづ》かなる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の櫻の花影《はなかげ》に
われは處女《をとめ》[#ルビの「をとめ」は底本では「おとめ」]となりにけり
都鳥《みやこどり》浮《う》く大川《おほかは》に
流れてそゝぐ川添《かはぞひ》の
白菫《しろすみれ》さく若草《わかぐさ》に
夢多かりし吾身かな
雲むらさきの九重《こゝのへ》の
大宮内につかへして
清涼殿《せいりやうでん》の春の夜《よ》の
月の光に照らされつ
雲を彫《ちりば》め濤《なみ》を刻《ほ》り
霞をうかべ日をまねく
玉の臺《うてな》の欄干《おばしま》に
かゝるゆふべの春の雨
さばかり高き人の世の
耀《かゞや》くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香《か》をかげり
きらめき初《そ》むる曉星《あかぼし》の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き
天《あま》つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名《な》の夕暮《ゆふぐれ》に消えて行く
秀《ひい》でし人の末路《はて》も見き
春しづかなる御園生《みそのふ》の
花に隱れて人を哭《な》き
秋のひかりの窓に倚り
夕雲《ゆふぐも》とほき友を戀《こ》ふ
ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門《かど》を出で
けふ江戸川に來《き》て見れば
秋はさみしきながめかな
櫻の霜葉《しもは》黄《き》に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水|靜《しづか》にて
あゆみは遲きわがおもひ
おのれも知らず世を經《ふ》れば
若き命《いのち》に堪へかねて
岸のほとりの草を藉《し》き
微笑《ほゝゑ》みて泣く吾身かな
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おきぬ
みそらをかける猛鷲《あらわし》の
人の處女《をとめ》の身に落ちて
花の姿に宿《やど》かれば
風雨《あらし》に渇《かわ》き雲に饑《う》ゑ
天《あま》翔《かけ》るべき術《すべ》をのみ
願ふ心のなかれとて
黒髮《くろかみ》長き吾身こそ
うまれながらの盲目《めしひ》なれ
芙蓉を前《さき》の身とすれば
泪《なみだ》は秋の花の露
小琴《をごと》を前《さき》の身とすれば
愁《うれひ》は細き糸《いと》の音《おと》
いま前《さき》の世は鷲の身の
處女《をとめ》にあまる羽翼《つばさ》かな
あゝあるときは吾心
あらゆるものをなげうちて
世はあぢきなき淺茅生《あさぢふ》の
茂《しげ》れる宿《やど》と思ひなし
身は術《すべ》もなき蟋蟀《こほろぎ》の
夜《よる》の野草《のぐさ》にはひめぐり
たゞいたづらに音《ね》をたてて
うたをうたふと思ふかな
色《いろ》にわが身をあたふれば
處女《をとめ》のこゝろ鳥となり
戀に心をあたふれば
鳥の姿は處女《をとめ》にて
處女《をとめ》ながらも空《そら》の鳥
猛鷲《あらわし》ながら人の身の
天《あめ》と地《つち》とに迷ひゐる
身の定めこそ悲しけれ
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おさよ
潮《うしお》さみしき荒磯《あらいそ》の
巖陰《いはかげ》われは生れけり
あしたゆふべの白駒《しろごま》と
故郷《ふるさと》遠きものおもひ
をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの
げに狂はしの身なるべき
この年までの處女《をとめ》とは
うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわが思《おもひ》
流れて熱《あつ》きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ
亂《みだ》れてものに狂ひよる
心を笛の音《ね》に吹かむ
笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十《とを》の指《ゆび》
音《ね》にこそ渇《かわ》け口脣《くちびる》の
笛を尋ぬる風情《ふぜい》あり
はげしく深きためいきに
笛の小竹《をだけ》や曇るらむ
髮は亂れて落つるとも
まづ吹き入るゝ氣息《いき》を聽け
力《ちから》をこめし一ふしに
黄楊《つげ》のさし櫛《ぐし》落ちにけり
吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙
短き笛の節《ふし》の間《ま》も
長き思《おもひ》のなからずや
七つの情《こゝろ》聲を得て
音《ね》をこそきかめ歌神《うたがみ》も
われ喜《よろこび》を吹くときは
鳥も梢に音《ね》をとゞめ
怒《いかり》をわれの吹くときは
瀬《せ》を行く魚も淵《ふち》にあり
われ哀《かなしみ》を吹くときは
獅子《しし》も涙をそゝぐらむ
われ樂《たのしみ》を吹くときは
蟲も鳴く音《ね》をやめつらむ
愛《あい》のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち歸り
惡《にくみ》をわれの吹くときは
散り行く花も止《とゞま》りて
慾《よく》の思《おもひ》を吹くときは
心の闇《やみ》の響《ひゞき》あり
うたへ浮世《うきよ》の一ふしは
笛の夢路《ゆめぢ》のものぐるひ
くるしむなかれ吾《わが》友《とも》よ
しばしは笛の音《ね》に歸《かへ》れ
落つる涙をぬぐひきて
靜かにきゝね吾笛を
[#改ページ]
おく
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