る千曲川

あした炎をたゝかはし
ゆふべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさも
翼をかへす淺間山

あゝ北佐久の岡の裾
御牧が原の森の影
夢かけめぐる旅に寢て
安き一日もあらねばや
高根の上にあかあかと
燃ゆる炎をあふぐとき
み谷の底の青巖に
逆まく浪をのぞむとき
かしこにこゝに寂寥《さびしさ》の
その味ひはにがかりき

あな寂寥《さびしさ》や其の道は
獸の足の跡のみか
舞ひて見せたる大空の
鳥のゆくへのそれのみか
さてもためしの燈火に
若き心をうかゞへば
人の命の樹下蔭
花深く咲き花散りて
枝もたわゝの智慧の實を
味ひそめしきのふけふ
知らずばなにか旅の身に
人のなさけも薄からむ
知らずばなにか移る世に
假の契りもあだならむ
一つの石のつめたきも
萬の聲をこゝに聽き
一つの花のたのしきも
千々の涙をそこに
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