こひしきまゝに家を出《い》で
こゝの岸よりかの岸へ
越えましものと來《き》て見れば
千鳥鳴くなり夕《ゆふ》まぐれ

こひには親《おや》も捨てはてて
やむよしもなき胸の火や
鬢の毛を吹く河風よ
せめてあはれと思へかし

河波《かはなみ》暗《くら》く瀬を早《はや》み
流れて巖《いは》に碎《くだ》くるも
君を思へば絶間なき
戀の火炎《ほのほ》に乾《かわ》くべし

きのふの雨の小休《をやみ》なく
水嵩《みかさ》や高くまさるとも
よひよひになくわがこひの
涙の瀧におよばじな

しりたまはずやわがこひは
花鳥《はなとり》の繪にあらじかし
空鏡《かゞみ》の印象《かたち》砂《すな》の文字《もじ》
梢の風《かぜ》の音にあらじ

しりたまはずやわがこひは
雄々《をゝ》しき君の手に觸れて
嗚呼|口紅《くちべに》をその口に
君にうつさでやむべきや

戀は吾身の社《やしろ》にて
君は社の神なれば
君の祭壇《つくゑ》の上ならで
なににいのちを捧《さゝ》げまし

碎《くだ》かば碎け河波《かはなみ》よ
われに命《いのち》はあるものを
河波高く泳ぎ行き
ひとりの神にこがれなむ

心のみかは手も足も
吾身はすべて
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