身にしめて
深き思に沈むらむ

さては秋津の島が根の
南の翼《つばさ》紀の國を
囘りて進む黒潮《くろしほ》の
鳴門に落ちて行くところ
天際《あまぎは》遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の踴るを望むとき
いかに胸うつ音《おと》高く
君が血潮のさわぐらむ

または名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松|萬代《よろづよ》の音《ね》に響く
舞子の濱のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狹霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の聲を聞くときは
いかに浦邊にさすらひて
遠き古《むかし》を忍ぶらむ

げに君がため山々は
雲を停めむ浦々は
磯に流るゝ白波《しらなみ》を
揚げむとすらむよしさらば
旅路《たびぢ》はるかに野邊行かば
野邊のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地《あめつち》の
もなかに遊べ大川《おほかは》の
流れを窮《きは》め山々の
神をも呼ばひ谷々の
鬼をも起《おこ》し歌人《うたびと》の
魂《たま》をも遠く返《かへ》しつゝ
清《すゞ》しき聲をうちあげて
朽《く》ちせぬ琴をかき鳴らせ

あゝ歌神《うたがみ》の吹く氣息《いき》は
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある

       九つの
藝術《たくみ》の神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典《あぜん》の宮殿《みや》の玉垣も
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場《まきば》を今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
千歳《ちとせ》の色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり

げにや大雅《みやび》をこひ慕ふ
君にしあれば君がため
藝術《たくみ》の天《そら》に懸る日も
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらむ
さらば名殘はつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
見よ影深き欄干《おばしま》に
煙をふくむ藤の花
北行く鴈は大空《おほそら》の
霞に沈み鳴き歸り
彩《あや》なす雲も愁《うれ》ひつゝ
君を送るに似たりけり

あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も櫻も散りはてて
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜むな家づとの
一枝の筆の花の色香を
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 うぐひす


さばれ空《むな》しきさへづりは
雀の群《むれ》にまかせてよ
うたふをきくや鶯の
すぎこしかたの思ひでを

はじめて谷を出でしとき
朔風《きたかぜ》寒《さむ》く霰《あられ》ふり
うちに望みはあふるれど
行くへは雲に隱《かく》れてき

露は緑の羽《はね》を閉《と》ぢ
霜は翅《つばさ》の花となる
あしたに野邊の雪を噛《か》み
ゆふべに谷の水を飮む

さむさに爪も凍りはて
絶えなむとするたびごとに
また新《あら》たなる世にいでて
くしきいのちに歸りけり

あゝ枯菊《かれぎく》に枕して
冬のなげきをしらざれば
誰《た》が身にとめむ吹く風に
にほひ亂るゝ梅が香を

谷間《たにま》の笹の葉を分けて
凍れる露を飮まざれば
誰《た》が身にしめむ白雪の
下に萌え立つ若草を

げに春の日ののどけさは
暗くて過ぎし冬の日を
思ひ忍べる時にこそ
いや樂しくもあるべけれ

梅のこぞめの花笠《はながさ》を
かざしつ醉ひつうたひつゝ
さらば春風吹き來《きた》る
香《にほひ》の國に飛びて遊ばむ
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 かりがね


さもあらばあれうぐひすの
たくみの奧はつくさねど
または深山《みやま》のこまどりの
しらべのほどはうたはねど
まづかざりなき一|聲《こゑ》に
涙をさそふ秋の雁《かり》

長きなげきは泄《も》らすとも
なほあまりあるかなしみを
うつすよしなき汝《なれ》が身か
などかく秋を呼ぶ聲の
荒《あら》き響《ひゞき》をもたらして
人の心を亂すらむ

あゝ秋の日のさみしさは
小鹿《をじか》のしれるかぎりかは
清《すゞ》しき風に驚きて
羽袖もいとゞ冷《ひや》やかに
百千《もゝち》の鳥の群《むれ》を出て
浮べる雲に慣《な》るゝかな

菊より落つる花びらは
汝《な》がついばむにまかせたり
時雨《しぐれ》に染むるもみぢ葉《ば》は
汝《なれ》がかざすにまかせたり
聲を放ちて叫ぶとも
たれかいましをとゞむべき

星はあしたに冷やかに
露はゆふべにいと白し
風に隨ふ桐の葉の
枝に別れて散るごとく
天《みそら》の海にうらぶれて
たちかへり鳴け秋のかりがね
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 野路の梅


風かぐはしく吹く日より
夏の緑のまさるまで
梢のかたに葉がくれて
人にしられぬ梅ひとつ

梢は高し手をのべて
えこそ觸れめやたゞひとり
わがものがほに朝夕《あさゆふ》を
ながめ暮《くら》してすごしてき

やがて鳴く鳥おもしろく
黄金《こがね》の色にそめ
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