うち煙《けぶ》る夜の靜けさ
仄白き空の鏡は
俤の心地こそすれ

物皆はさやかならねど
鬼の住む暗にもあらず
おのづから光は落ちて
吾顏に觸《ふ》るぞうれしき

其光こゝに映りて
日は見えず八重《やへ》の雲路に
其影はこゝに宿りて
君見えず遠の山川

思《おも》ひやるおぼろおぼろの
天の戸は雲かあらぬか
草も木も眠れるなかに
仰ぎ視て涕を流す
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 吾戀は河邊に生ひて


吾戀は河邊に生ひて
根を浸《ひた》す柳の樹なり
枝延びて緑なすまで
生命《いのち》をぞ君に吸《す》ふなる

北のかた水去り歸り
晝も夜も南を知らず
あゝわれも君にむかひて
草を藉き思を送る
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 吾胸の底のこゝには


吾胸の底のこゝには
言ひがたき祕密《ひめごと》住めり
身をあげて活《い》ける牲《にへ》とは
君ならで誰かしらまし

もしやわれ鳥にありせば
君の住む※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]に飛びかひ
羽を振りて晝は終日《ひねもす》
深き音に鳴かましものを

もしやわれ梭《をさ》にありせば
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思を
その絲に織らましものを

もしやわれ草にありせば
野邊に萌《も》え君に踏まれて
かつ靡きかつは微笑《ほゝゑ》み
その足に觸れましものを

わがなげき衾に溢れ
わがうれひ枕を浸す
朝鳥に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ

口脣《くちびる》に言葉ありとも
このこゝろ何か寫さむ
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ傳ふべきなれ
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 君こそは遠音に響く


君こそは遠音に響く
入相の鐘にありけれ
幽かなる聲を辿りて
われは行く盲目《めしひ》のごとし

君ゆゑにわれは休まず
君ゆゑにわれは仆れず
嗚呼われは君に引かれて
暗き世をわづかに搜る

たゞ知るは沈む春日の
目にうつる天《そら》のひらめき
なつかしき聲するかたに
花深き夕を思ふ

吾足は傷つき痛み
吾胸は溢れ亂れぬ
君なくば人の命に
われのみや獨《ひとり》ならまし

あな哀《かな》し戀の暗には
君もまた同じ盲目《めしひ》か
手引せよ盲目《めしひ》の身には
盲目《めしひ》こそうれしかりけれ
[#改ページ]

 こゝろをつなぐしろかねの


こゝろをつなぐ銀《しろかね》の
鎖も今はたえにけり
こひもまこともあすよりは
つめたき砂にそゝがまし

顏もうるほひ手もふるひ
逢う
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