、だ。午後の四時頃、わたしたちは彦根泊りで京都を立つた。大津、石山、草津、安土――わたしに取つては四十年前の旅の記憶の忘れられずにある驛々を汽車の窓から見て通り過ぎた。
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十四日。
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彦根滯在。
曾て青年時代の馬場君がこの地の中學に教鞭を執つたことがあり、關ヶ原を通り過ぎて上京する度に、その旅の話のよく出たことなぞが思ひ出される。わたしたちの泊つた樂々園といふは、もと井伊氏の下屋敷とか。古城のあとの一區域にその下屋敷があつて、庭も廣く、つゝじ咲き殘り、黄ばんだ六月の花は眼にある若草を一面に明るく見せてゐた。城として好いところは、城址としても好いといふある人の言葉もわたしたちを欺かない。ちやうど旅客もすくない時に泊り合せて、多くの部屋を見て※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ると、西に湖水の眺望がひらけて、青い蘆を渡つて來る風の涼しい座敷もある。まるまげに髮を結つた女中が來ての話に、神戸邊のある年老いた商人を一夜の客として泊めて見たところ、その人は東京への汽車の往き還りにいつかこの彦根に泊つて見たいと心掛けながら、漸く六十年の間に一度の
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