フ喜多氏方だ。戸川君がわたしのために六平太氏の蝉丸を選んで誘つて呉れたのはありがたかつた。わたしはまだ高砂を見たことがない。六平太氏のやうなすぐれた能役者によりて演ぜらるゝ高砂は、わたしの見たいと思ふものの一つだ。
謠曲が純粹な佛教時代の文學であるといふことは、わたしには疑問である。本地垂跡の教と、その後に來る兩部神道との發達した中間の時代へ持つて行つて、謠曲の文學を考へて見たい氣がする。
能について書かれたもののうち、戸川君がその隨筆集に載せた一文はよくわたしの胸に浮ぶ。あれは好い隨筆だつた。能の持つ特色についていろ/\なことをわたしに教へて呉れたのもあの隨筆だ。たしか魚の活き返るおもしろい物語、地獄に墮ちて苦しむ男の物語なぞがいかに能舞臺の上で表現されるかも、あの中に書かれてあつたと覺えてゐる。野口米次郎君も能について數篇の詩文を書かれたことを想ひ起す。舞臺の上に動く能役者の足どりとその白い足袋の感じが、水中に動く魚に譬へてあつたやうだが、あの美しい形容も忘れがたい。
これを書いてゐると、わたしの側に人があつて、能を見るには相應な支度のいることをわたしに言つて見せた。し
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