るまい。背に雨具、筆、墨のたぐひ、あるひは夜の防ぎにもと紙布、ゆかたの類までも用意して百里二百里の道を踏んだといふ頃にわたしたちの心を馳せるとしたら、そして初しぐれの來る季節を想像し、山茶花なぞの咲く宿々を想像するとしたら、旅人と自分の名を呼ばれようと言つた昔の人の姿がおのづとそこに浮んで來る。
朝を思ひ、又夕を思ふべし、とか。昔の人に取つてこそ、旅も修行ではあつたらう。前途百里の思ひに胸が塞がると言ひ、日々の道中に雨風を厭ふと言ひ、旅は九日路のものなら十日かゝつて行けと言ふほどにして、思はず荒く踏み立てる足まで大切にするやうな昔の人の心づかひは、今日旅するものの知らないことである。思へばわたしたちの踏む道は變つて來た。多くの人に取つて、旅は最早修行でもない。電車、自動車は一ト息にわたしたちを終點地へと運んで行く。今のわたしたちには、雨具を背にする必要もない。笠を日に傾け、夜の防ぎとなるものを肩に掛けるやうな必要もない。わたしたちはひたすら前進する力の速さをたよりとして、目的とするところへ到着することをのみ考へるやうになつた。
今のわたしたちの周圍には、動搖のうちに靜かに立つ
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