に鑑眞和尚のことに關した記事を見つけるであらう。芭蕉が大和めぐりの旅を終り、高野山から和歌浦の方を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて、奈良まで引き返して來たのは、ちやうど鹿の子を産する若葉の頃で、その折に招提寺を訪ね、鑑眞和尚の像を拜んだとある。人も知る『若葉しておん眼の雫ぬぐはばや』の芭蕉の吟は、この盲目な唐僧の像に對してである。
こんなことをこゝに書き添へて見るのも、他ではない。鑑眞が幾多の途中の困難と戰つた後で、漸く薩摩の國の港に到着し、それより筑紫の太宰府から難波を經て、東大寺に入つた時は、宰相、右大臣、大納言已下の官人百餘人の訪問を受け、吉備眞備は正四位下朝臣の格で勅使として訪ねて來るほどのもてなしを受けたとのことであるが、この唐僧が東征の志を果して自己の周圍に見出したものは何かといふに、それは實に當時の佛教が早くも政治的な黨爭の渦中に卷き込まれてゐたことであつたといふ。
在原業平は貞觀時代の人である。その時代を念頭に置いて、それから朝臣の歌に行くと、あの多感な歌人の位置もいくらかはつきりして來るやうに思はれる。おそらく新時代の先驅となつたほどの人でその周
前へ
次へ
全195ページ中26ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング