に於ける佛教の信仰が印度教の大きな影響を受けるに至つた以後のことではあるまいか。
貫之の土佐日記なぞを見ると、男のする日記を女もして見ると言つてあり、當時男のもてはやした文學が憶良の『悲傷亡妻詩』の序や、または家持の大伴池主に報いた詩の序の延長のやうな漢文口調のものであつたらうかと想像すると、支那文化の影響も大きいといふ感じがする。貫之なぞはそれに對して大和言葉のために戰つた人と言つていゝ。
一體、平安朝時代は、前代の大陸的な時代とも違ひ、徐々に國民的なものを打ち建てゝ行つた新時代であるとも言はるゝ。しかし、これは壓倒的な大陸の影響と戰ふことに依つてのみ成し就げられて行つたことを忘れてはなるまい。そこには幾多の大陸の惡影響が蔓《はびこ》つてゐたこと、又、唐土そのものもすでに萬葉時代に交通した唐土ではなかつたことをも想ひ見ねばなるまい。
わたしは山口隆一君より贈られた一册の過海大師東征傳を愛藏してゐるが、過海大師とは奈良招提寺の鑑眞和尚の事で、この唐僧が佛法の戒律を傳へに來朝したのは、平安遷都より三十年ほど前にあたる。
芭蕉の『笈《おひ》の小文《こぶみ》』を讀むものは、あの
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