フことはしばらく措くとしても、藤原宮に遷つてから五年目に成つた藥師寺の佛教美術と、人麿等の和歌とはどういふ關係にあるだらう。古代の佛教が人麿等の文學に影をさしてゐるとは、どうも思はれない。それのやゝ感じられるのは萬葉時代も憶良や家持に降つて行つた頃である。萬葉集の中には、博通、通觀、滿誓、惠行、妙觀、その他の僧尼の歌をも納めてあるが、いづれも生き、愛し、死ぬる存在に、まともにぶつかつて行つた歌のやうである。後世の無常觀などで萬葉盛時の文學を律するのは至極の危險であるやうだ。
 わたしはもつと奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係を考へて見たいと思つてゐる。それには先づ平安朝以後の時代の尺度を捨てねばならぬ。圓滿で美しい希臘《ギリシヤ》美術にも比較さるゝ奈良朝時代のそれとの關係を考へて見ることは、やがて萬葉集の文學の讀みを深めることになる。

 人麿は唐の李白、杜子美、及び王摩詰などの諸詩人に先立つてあの和歌を完成して行つた人のやうである。支那大陸の文學が李杜王三家を得て詩の最高潮に達した頃は、これを萬葉の諸歌人にあてはめて見ると、憶良あたりの時代にあたるかと思ふ。

 奈良朝から降つ
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