{陸のつくり」、第3水準1−94−44]《かんむつ》、鮟鱇《あんかう》、寒比目魚《かんびらめ》なぞをかつぎながら、毎日大森の方から來てわたしの家の前に荷をおろす年若な肴屋がある。冬の魚を賣つて行く。その後には何かしら威勢のいゝ、勇みなものが殘る。かうした肴屋の聲にかぎらず、いろいろな物賣の聲には、機械を通じて傳はつて來る響にないものがある。町を呼んで通り過ぎる花屋の聲のすゞしさ、寒紅賣《かんべにうり》のやさしさ、竿竹賣のおもしろさ。あたりの空氣をやはらげたり引き立てたりするものは、どうしても陰影の多い人の聲にかぎるやうだ。
ずつと以前にはわたしたちもよく聲を出したものだ。少年時代に四書五經の素讀から始めたわたしなぞは、聲を出して讀書することを樂しみに思つたばかりでなく、それを聽くことをも樂しみに思つた。わたしたちの出す聲は隨分無茶で書生流儀のものではあつたが、いくら叫んでも叫び足りなかつたやうに、わたしたちの胸から迸り出るものが、いろ/\な試みともなつたのである。
どうも、この節は聲を出すといふことが、どの方面にも少くなつたやうな氣がする。どつちを向いて見ても、鳴りを潜めて、沈
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