、なこの老婦人は、更に人生の旅路を進めつゝあるのだらうか、それともあるところから引き返して來て若かつた時分の方へと、どん/\歸路を急ぎつゝあるのだらうかと。

 過ぐる多事な一年もさびしく暮れて行つた。曾て私は世界大戰の最中に佛蘭西を辭しヴェルダン要塞戰の始まりかけた頃に英吉利海峽を後に見て、大西洋上の危險區域を船で通り過ぎたことがある。その時、船中の無線電信室を訪ねると、遠い海上で助けを求める聲が受信機に傳はつて來てゐた。どうしてこんなことをこゝに書きつけて見るかといふに、餘日も少い去年の暮あたり、私の耳の底にある受信機には、何程の助けを呼ぶ聲が傳はつて來たとも知れなかつたからである。

 兎も角も私達は餅をつき、松の小枝を門にさし、輪かざりを軒にかけて、新しい正月を迎へることが出來た。古人も多く旅に死んだとやら。笠をかぶり草鞋をはいて年を越えると言つた昔の人は、一年に一度のかち栗、ごまめ、數の子の味をよく噛みしめることをこの私達に教へて呉れる。

     寢物語
[#天から10字下げ](昭和八年のはじめ、『夜明け前』第二部上卷の稿を繼ぐ頃)

        一

 寒※[#「魚
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