ュほどのものは、いづれもこの小さな言葉をおろそかにしない。故福澤諭吉翁はあの通り明治初年の頃に文明論を書いた人であるが、あれほどの論文も大きな言葉ばかりでは書かなかつた。
こゝに昔の人の書いた好い手紙の一節がある。大きな言葉ばかりでわたしたちの心が訴へられないことは、この手紙の一節を味つて見てもわかる。
『……松茸御所柿は心のまゝに喰ひちらし、今は念《おも》ひの殘るものなしと、暮秋二十八日より三十二日目に武江深川に至り候。盤子につかはされ候御返翰は、熱田は人々取り込み候へば、封のまゝにて岡崎まで持ち參り候て、窓の破れより風吹き入り、戸の透間より月泄りかゝれる、いをの油のなまぐさきよごれ行燈の前にて、御文まづ開く。泪《なみだ》、紙面にそゝり候。』
手紙もこんな風に書けたら、どんなに樂しからう。そして、こんなに眞情が直敍されたなら、物書くその事が直ちにわたしたちの心を滿たすことであらうとも思はれる。
昭和六年のはじめに
[#天から10字下げ](『夜明け前』第一部下卷を草する頃)
新しい時代の歩みは今のところ激しく移り動いて底止するところを知らない。この趨勢は私達の日常生活から娯樂や運動の上に及び、通信交通の機關を換へるばかりでなく、印刷出版の面目をも改めつゝある。衣に、食に、住に、今日ほど新舊のものがめまぐるしく入り亂れてゐる時代もめづらしい。急激に時世後れになつて行く古い習慣がある。眼前には廢れて行く古くからの風俗がある。誰もがこの光景を目撃しながら、その感知したところのものを容易に言ひあらはせないでゐる。そこで要領のいゝ人達があつて、あるひは科學の浸潤、あるひは器械の發達、あるひは國際關係の激變、その他種々な言葉をもつて、その光景を私達に指摘して見せて呉れる。いづれにしても私達はこのめまぐるしい時代に處して、一方には近代的な施設を受け容れ、一方にはテンポの速さに應じて行かねばならぬ。これは一種の洪水だ。世界的の氾濫だ。こんな時に行き惱むもののあるのはむしろ當然で、それを見て嘲笑の聲を浴せかけるのは、無情と言はねばならない。
『無才無能にしてこの一筋につながると言つた昔の人もあるやうですが、私はそれほど自分を責めるでもなく、寢ごとを書いて暮すうちに、最早五十代を終らうとしてゐます。』
こんなことを書いて去年の冬の『新潮』に寄せたこともある。人として行き得るかぎりを行き盡したところには、何が自分等を待つてゐるだらうかといふやうなことは、今からそれを言つて見ることも出來ない。
しかし同じ老年とは言つても、人生の旅は一筋道ではなささうだ。去年の初秋、私はある河のほとりに沿うて山道を旅したことがある。私の降りて行く道は、やがて河の流れて行く道だ。その時、私はさう思つた。晝夜を止めずに低きに就くやうなこの水は、進みつゝあるのだらうか、それとも歸りつゝあるのだらうかと。
私は七十歳に近い一人の老婦人を知つてゐるが、此婦人なぞのするところを見るに、物を探し物を掴まうとする日常刻々の努力にかけては、殆ど青年に異ならない。たゞ青年の探すものが好かれ惡しかれ新しい刺激を與へるやうなものであるにひきかへ、この老婦人の探すものは、若い時分に刺激を受けたものにどうかしてもう一度めぐり逢はうと思ふの相違だ。例へば變り果てた町の中を歩くにしても以前にあつた古着屋などを探し當てゝ、昔流行つた着物の殘りをなつかしむといふ風である。そこで私はこの老婦人を見る度に去年の河のほとりでの旅を思ひ出して自分に言つて見る。その年になつても休息することを知らないやうなこの老婦人は、更に人生の旅路を進めつゝあるのだらうか、それともあるところから引き返して來て若かつた時分の方へと、どん/\歸路を急ぎつゝあるのだらうかと。
過ぐる多事な一年もさびしく暮れて行つた。曾て私は世界大戰の最中に佛蘭西を辭しヴェルダン要塞戰の始まりかけた頃に英吉利海峽を後に見て、大西洋上の危險區域を船で通り過ぎたことがある。その時、船中の無線電信室を訪ねると、遠い海上で助けを求める聲が受信機に傳はつて來てゐた。どうしてこんなことをこゝに書きつけて見るかといふに、餘日も少い去年の暮あたり、私の耳の底にある受信機には、何程の助けを呼ぶ聲が傳はつて來たとも知れなかつたからである。
兎も角も私達は餅をつき、松の小枝を門にさし、輪かざりを軒にかけて、新しい正月を迎へることが出來た。古人も多く旅に死んだとやら。笠をかぶり草鞋をはいて年を越えると言つた昔の人は、一年に一度のかち栗、ごまめ、數の子の味をよく噛みしめることをこの私達に教へて呉れる。
寢物語
[#天から10字下げ](昭和八年のはじめ、『夜明け前』第二部上卷の稿を繼ぐ頃)
一
寒※[#「魚
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