ニもないなぞとは信じ難い。しかし實際さういふ時代もあつた。
昔は手紙を書くことを知らない婦人すらあつた。手紙と言へば、おほよそ定められた手本があつて、さういふ文範の教へる書き方によらなければ書けないものだと思つた人達が多かつたらしい。
さういふ昔にも、好い手紙をのこした婦人達がなくもない。わたしはある商家の老婦人がその娘に宛てた數通の手紙の殘つたのを讀んで感心したことがあつた。その老婦人の書いたものも、『一筆しめしあげまゐらせ候』から始めて、『あら/\かしく』で結んだものではあつたが、内容は自由に、昔風な手紙の型の堅さなどはすこしもなく、こまかい心持もよくあらはれてゐて、子を思ふ母親の心がおのづからそんな好い手紙を書かせたのだと感心したことがあつた。その中には、『どうして自分の生んだ娘はこんなやくざなものばかりか』となげきかなしんだ言葉のあつたことを覺えてゐる。
今日の婦人には最早わたしたちの母の時代のやうな窮屈さはない。婦人の教育はさかんになり、一切の舊い型は破れ、見るもの聞くものは清新に、深い窓にのみ籠り暮した昔の婦人に比べたら實に廣々とした世界へ躍り出して來てゐる。これほどの時代に生れ合せた人達が思ふことを自由に言ひあらはせない筈もない。
ところが、わたしは身のまはりに集まつて來る諸方からの音信に接する度に、これはと思ふやうな手紙を書く婦人のすくないのに驚くことがある。何も言ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しの巧みさを求めるでもない。澤山な言葉を求めるでもない。眞情が直敍されてあつて、その人がよくあらはれてゐればと思ふのだが、さういふ手紙もすくないものだと思ふ。勿論、書けば書いたで、書かなければ書かないで、兎角物足りなさが先に立つて、わたしたちの思ふことがなか/\さう盡せる筈もないのだが、しかし相應に心も深く、生活も豐當で、逢つて話して見れば感心するやうな婦人が、どうしてこんな手紙を書くかと思つて心に驚ろくこともある。近頃、わたしはあるお孃さんが人の許に寄せた手紙のことに就いて、その話を又聞きにしたことがあつた。それを受け取つた人は、これが今の日本で最も進んだ教育を受けたといふお孃さんの書いた手紙かとさう思つたといふ。現代の人の口にのぼる問題でおよそ知らないことはないと言ふほどのお孃さんにして、どうしてそんな感じを人に與へるのか。教養と物書くこととは別の物であるのか、手紙を書くといふことも一つの才能であるのか、舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせるのか。
それにつけて思ひ出す。曾て外國の旅にあつた頃、言葉の不自由さには自分でも苦しみ、在留する人達からもよくその話を聞かされた。國の方で語學の教師がつとまるほど外國の言葉に親しんだ人でも、一歩海の外へ身を置いた時は、靴一足注文するにもまごつくものだとの話なぞが出たことを覺えてゐる。ある人が以太利《イタリー》に留學したばかりの頃、その人を泊めた宿の以太利の婦人は不審を打つて、『今度日本から見えた客は不思議な方で、話をさせてはすこししか以太利語を話さないが、手紙なら實にすら/\とお書きなさる』と言つて驚いたといふ話もある。わたしたちの語學は多く眼から入る語學で、耳から入る語學ではないのだから、日常使用する些細な言葉の語彙には乏しくて、書物の中に出て來るやうなむつかしい名詞、形容詞を暗記してゐることは、しば/\外國人を驚かす。ある倫敦《ロンドン》の婦人は、日本から行つた留學生を前に置いて、『あなたがたは大きな言葉をよく知つてゐるが、小さな言葉を御存じない』と言つて見せたとか。どうしてこんなことをこゝにくど/\しく書きつけて見るかと言ふに、その英吉利《イギリス》の婦人が言つたといふ大きな言葉と小さな言葉の關係こそは、わたしたちの忘れてならないことで、一度その言葉の祕訣を會得したら、自由に思ふことも言ひあらはせるからである。これは會話の上のことにのみ限らない。物書く祕訣も、實はそんなところに潜んでゐるのではあるまいか。
そこで、わたしは婦人の書く手紙のことに返つて、こんなことを考へてみる。成程、教養と物書くこととは別の物であるかも知れない。手紙を書くといふことも一つの才能であるかも知れない。舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせる場合もあるかも知れない。しかし、大きな言葉を知ると共に小さな言葉を知つて、その祕訣をつかんだなら、すくなくも生きた手紙を書き得るであらうと。
現代の人の口に上る合言葉、新聞雜誌の中に見つける新語、書物の中に出て來る學問上の術語、それらの多くは大きな言葉である。わたしたちが現に口にしてゐながら、それに氣がつかずにゐるやうな、それらの親しみもあれば、陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆執り物書
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