{陸のつくり」、第3水準1−94−44]《かんむつ》、鮟鱇《あんかう》、寒比目魚《かんびらめ》なぞをかつぎながら、毎日大森の方から來てわたしの家の前に荷をおろす年若な肴屋がある。冬の魚を賣つて行く。その後には何かしら威勢のいゝ、勇みなものが殘る。かうした肴屋の聲にかぎらず、いろいろな物賣の聲には、機械を通じて傳はつて來る響にないものがある。町を呼んで通り過ぎる花屋の聲のすゞしさ、寒紅賣《かんべにうり》のやさしさ、竿竹賣のおもしろさ。あたりの空氣をやはらげたり引き立てたりするものは、どうしても陰影の多い人の聲にかぎるやうだ。

 ずつと以前にはわたしたちもよく聲を出したものだ。少年時代に四書五經の素讀から始めたわたしなぞは、聲を出して讀書することを樂しみに思つたばかりでなく、それを聽くことをも樂しみに思つた。わたしたちの出す聲は隨分無茶で書生流儀のものではあつたが、いくら叫んでも叫び足りなかつたやうに、わたしたちの胸から迸り出るものが、いろ/\な試みともなつたのである。

 どうも、この節は聲を出すといふことが、どの方面にも少くなつたやうな氣がする。どつちを向いて見ても、鳴りを潜めて、沈まり返つてゐるやうな氣がする。物をいへば口唇が寒いのか。吹き狂ふ世紀のつめたい風がこんなに人を沈默させるのか。

 書物に對してすら、今の私達は音讀の習慣を失ふやうになつた。默讀、默讀だ。これは自分等のやうな年頃のものばかりでないと見えて、町を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてもめつたに若々しい讀書の聲をきかない。

 先づ聲を出せ。そのことに思ひついて、音讀や朗吟の氣風を再興したいといひ出した人がある。その趣意を弘めるための試みの一つとして、最近に短歌五首と長詩一篇とを朗吟し、それをポリドオル蓄音器會社のレコードに吹き込んだ人がある。それを吹き込んだ人が土岐善麿君であるのだから、私にはめづらしく思はれた。そのレコードの半面は遠くは西行や實朝から近くは啄木までの五人の短歌一首づゝ、半面にはわたしの千曲川旅情の歌を組み合せたものであるが、發行所から寄贈されたのを聽いて見ると、自分らの青春はそんなところにも隱れてゐるかのやうな心持を起させる。あの朗吟は、それほど自然で、すこしのわざとらしさもない。耳ざはりも實に爽かである。おもしろい試みと思つた。

 滿目蕭條――寒い季節がやつて來た。さういふ中で、町へ來る冬の雨の音ほど、このわたしの心を落ちつかせるものはない。その音を聽くたびに、わたしはいろ/\なことを思ひ出す。平素は殆ど忘れてゐたやうなことまで思ひ出す。そして、この生を耐へる氣になる。

[#天から4字下げ]人々をしぐれよ宿は寒くとも
 南の障子に近く行つてこの昔の人の句を口ずさんで見る。雪景色が好きでよく描いたらしい王維の繪畫にあらはしてあるやうな、あの寒い遠さを一緒に胸に浮かべて見る。しぐれながらも人を訪ふものがあり、雪に濡れながらも道を行くものがある。さういふ思ひを傳へるものは、句にしても繪畫にしても、すべて親しい。それが冬の姿であれ風情であれ、底に燃える焔を形にあらはして見せて呉れるやうなものであるなら、猶々ありがたい。

        二

 昨年度において、私の心に引かれたものの一つは、ゲエテ百年祭を機會にあの詩人を囘顧する聲のかなり賑やかであつたことである。岩波書店で發行する雜誌『思想』のゲエテ研究號を初め、わたしは自分の手の屆くかぎり諸家の筆になるものを讀むのを樂しみにして、ゲエテの研究もこゝまで深められたかと想つて見た。その人が亡くなつてから百年もの後になつて、こんなにゲエテを探す聲の聞えて來るのは、どういふわけかと想つて見た。それほどわたしたちの生活が急速な歩調で、自然から遠ざかりつゝあるためではなからうかとも想つて見た。
 大きな自然を母とすることにおいて、ゲエテはまさしく十九世紀の人である。わたしたちの求むべきものは、ゲエテの跡を求めることではなくて、ゲエテの求めたものを求めることにある。
 ゲエテの生涯になつかしいことは、あれほど險しい理路を辿りながら、しかも正しい感情を解放し得たところにある。あれほど人間的なものを愛し、また一生を通してその愛を深めて行つたところにある。

 昨年度は、市川團十郎の三十年祭といふことでも、いろ/\な催しがあり、諸家の追憶談で賑はつた。どうも非常時には亡くなつた偉人を喚び起すことが流行して、故人のやうな劇壇の偶像破壞者までを更に偶像扱ひにすることは感心しないが、しかし三十年後の今日に故人の生涯を見直さうとした幾人かの人達の眼のあつたことは心強い。歌舞伎の世界に反抗の精神を持ち來した故人が、淫靡で頽廢した江戸末期の舞臺の上の空氣に決して滿足しなかつたこと、故人の一面がその意
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