。において歌舞伎の破壞者であつたこと、しかし故人のやうな性格の俳優は默阿彌にも櫻痴居士にも遂に『作者』を見出さなかつたことなぞが、それらの人達の眼によつて明かになつた。これを書きかけると、ふと思ひがけない人の詩の句が私の胸に浮んで來た。『こゝろざしといふものは果して幾人によつて憐まれるであらうか』との意味の句である。長く舞臺を踏んで多くの見物があこがれの的であつた成田屋のやうな人でも、やはり無言なこゝろざしを懷にして、見る人の見るまゝに任せながら、この世を過ぎて行つたであらうか。
三
人間的なものであればなんでも好ましい、といつたゲエテのやうな人もある。植物からも動物からもその材料を採つて、紡ぎ、織り、染め、そして着るわたしたちの衣服こそ、どこまでが『自然』でありどこまでが『人工』であるともいへないほど調和したものの一つであらう。かういふことは、人間の世界以外にちよつと見當らない。わたしたちは着る物によつて、實に種々さま/″\なことを感ずる。新舊の悲喜劇は着物からも起る。假令《たとへ》食ふ物をすこしぐらゐ減らしてまでも、着る方に浮身をやつすといふ人さへある。それを思ふといぢらしい。
小紋といふ染模樣は、今はすたれたが、わたしの青年時代までは年若な人たちが好んで着たことを覺えてゐる。ひとり年若な人達ばかりでなく、年老いた男でも女でも昔はよくあれを着たものであるとか。小紋は鼠地を本色とするといふ。こまかい粉のやうな雪を一面に散らしたやうな意匠の染模樣は、白と鼠色との好ましい調和だ。染色が化學工業の時代に移つてから、好い鼠色を出すことの困難なため、小紋も次第に染色の世界から隱れるやうになつたと聞くが、あゝいふおもしろい意匠が往時の流行にとゞまり、もう一度歸つて來ないのは惜しい。
わたしの家には今、埼玉の冬を避けに出て來た川越明仁堂の老母がゐる。この年とつた婦人が自分の父親から聞いた話だとして、小紋の染模樣の意匠を遠く在原業平の昔にまで持つて行つて見せた。老母の口吻によると、業平はよほどの洒落者であつたと見えて、鼠地の衣裳の上に白い雪の降りかゝつたのをおもしろく思ひ、それを模樣に染めさせたのが、そも/\の小紋のはじめであると、その道の人の間にいひ傳へられて來たとか。業平小紋なるものがそれだともいふ。この話をある人にしたところ、かういふことには兎角附會の説が多いから、業平小紋もおそらく傳説的な形容の言葉であらうと言つてゐた。兎もあれ、小紋を着るに最もふさはしく思はれるのは冬の日だ。雪やあられと同じ灰白な色調を着て徘徊した時代もあつたと考へて見ただけでも、そこにいひあらはしがたい風情が浮んで來る。
四
近江と美濃の國境には寢物語の里の名が殘つてゐる。兩國の村里が相接して、國と國との寢ものがたりする趣のあるといふところから、その名がある。めづらしく思つて、以前にもわたしはさういふ村里のあることを物のはしに書きつけて見たこともある。木曾路名所圖會をあけて見ると、あの邊が東山道の街道筋に當るところで、左右に見える近江と美濃の山々がたけくらべする趣のあるところから、別にたけくらべの里の名も殘つてゐるといふ。名所圖會にはあの村里の圖も出てゐるが、それを見ると兩國の境は壁一重といつてもいゝ。一方に美濃の兩國屋といふ休茶屋があれば、一方には近江の境屋といふ旅籠屋《はたごや》がある。さういふ民家が軒を並べてゐる。兩國のものが相往來し、互に寢物語りも出來さうなところである。
さういふわたしは、信濃と美濃の國境に生れたところから、殊にあの寢物語の里のやうな土地柄には特別に興味を覺える。わたしの郷里では、國も違へば言葉のなまりまで違ふものが山一つへだてながら隣合つて住んでゐる場合であつて、村と村とがそれほど接近した位置にあるわけでもない。でも、美濃派の俳諧は古くからわたしの郷里に流れ込んで來てゐるし、わたしの村に生れた古い畫家の筆は隣國にある人の家のふすまや屏風を飾つてゐる。こちらから嫁にも行けば、向ふから養子にもくる。國の境もそこまで行けば、ほとんど境なきに至る。兩國のものは一切の相違を忘れて、互に混り合ひもすれば、許し合ひもしてゐるのだ。
囘顧
[#天から10字下げ](『日本文學講座』に寄す)
改造社から出版された日本文學講座はすでに第十四囘の配本を終り、和歌文學に、物語小説に、隨筆日記に、俳諧文學に、その他明治以來の新しい文學等に、一大文學史の觀あるこの講座もまさに完成されようとしてゐる。わたしは筆執り物を書くものの一人としても、この講座編輯者が骨折と苦心とに對しては感謝の意を寄せたい。これほどの講座は明治年代にはあらはれなかつたもので、わたしたちとしても益を得ることが多かつた。一方
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