ゥらは、明治年代以來の準備期を經て、諸家の研究がこゝまで進んで來たことを語つてゐるとも言ひ得ると思ふ。一つの例を言へば、安江不空氏が在原業平の研究のごとき、伊勢物語の歌を採つて業平の人物のすべてを推斷せんとするごときは至極の危險であるとなし、朝臣《あそん》が自歌と認むべきものはごく少數であるとなし、その正調と目すべき數首の歌を擧げ示されたなぞは、たしかに有益な文字であつた。さらにまた一つの例を言へば、英文學に造詣の深い土居光知氏が比較研究の立場から平安朝の日記文學について記述された一篇のごとき、伊勢物語、土佐日記、蜻蛉日記等の文體を探つて、國文の創造とその組織にまでさかのぼつたことは、これまた有益な文字であつたと思ふ。

 さういふわたしはこの講座の編輯者に約束して、自分の愛する日本文學ともいふべき題目のもとに、いさゝかの感想を寄せたいと思つてゐたが、長い創作の仕事を控へてゐる身には、思ふやうにその約束も果せない。こゝには胸に浮ぶことを順序もなくしるしつけるにとゞめる。

 遠い萬葉時代の古は想像も及ばないが、奈良朝美術のさかんな頃であつた當時の社會の空氣を想ひ、海のかなたは黄河の流域にあるものと楊子江の流域にあるものとの完全な統一と調和とに達したと言はるゝ唐時代であることを想ひ、その高潮に達した支那文化がこの國に及ぼした刺激と影響とを想ひ、大陸より歸來する遣唐使又は渡來する佛僧工人等の活動なぞを想ひ見ただけでも、歌人としての人麿はたしかにおもしろい時に生きてゐたと考へられる。
 ひとり唐土との直接な交通にとゞまらない。同じやうに内地の交通がひらけ、わたしの郷里に當る岐蘇《きそ》山道のひらけたのもまたあの萬葉時代であつたと考へて見ることも樂しい。當時の宮廷といひ、君臣の關係といふものも、後の平安朝時代とはよほど趣を異にしたものでなかつたらうか。天皇が群臣をしたがへて遠い山野の狩に出かけられたすゞしい光景は、萬葉集中の諸作にもうかゞふことが出來る。いかにものび/\として、こだはりのない當時の人達の氣象が思ひやられる。
[#天から4字下げ]ひむがしの野《ぬ》にかぎろひのたつ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
 この人麿の歌が生れて來てゐるのも偶然ではない。

 奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係は、どうもまだわたしにははつきりしないところがある。飛鳥《あすか》朝時代のことはしばらく措くとしても、藤原宮に遷つてから五年目に成つた藥師寺の佛教美術と、人麿等の和歌とはどういふ關係にあるだらう。古代の佛教が人麿等の文學に影をさしてゐるとは、どうも思はれない。それのやゝ感じられるのは萬葉時代も憶良や家持に降つて行つた頃である。萬葉集の中には、博通、通觀、滿誓、惠行、妙觀、その他の僧尼の歌をも納めてあるが、いづれも生き、愛し、死ぬる存在に、まともにぶつかつて行つた歌のやうである。後世の無常觀などで萬葉盛時の文學を律するのは至極の危險であるやうだ。
 わたしはもつと奈良朝の美術や宗教と萬葉集の文學との關係を考へて見たいと思つてゐる。それには先づ平安朝以後の時代の尺度を捨てねばならぬ。圓滿で美しい希臘《ギリシヤ》美術にも比較さるゝ奈良朝時代のそれとの關係を考へて見ることは、やがて萬葉集の文學の讀みを深めることになる。

 人麿は唐の李白、杜子美、及び王摩詰などの諸詩人に先立つてあの和歌を完成して行つた人のやうである。支那大陸の文學が李杜王三家を得て詩の最高潮に達した頃は、これを萬葉の諸歌人にあてはめて見ると、憶良あたりの時代にあたるかと思ふ。

 奈良朝から降つて平安朝に移ると、すべてのものが變つて行つたやうに見える。尤も、これは一朝一夕の變化ではなく、奈良朝も末になつてあの大伴家持がこの世を去つた延暦年代の頃には、すでに宮廷の事情も變り、君臣の關係も變り、寺院や僧侶の位置も變り、農兵の關係も變りつゝあつたばかりでなく、海のかなたより絶えずこの國に大きな影響を與へた大陸そのものすら變りつゝあつたやうである。さういふ中にあつて、ひとり日本の文學ばかりが舊態を保つてゐる筈もない。人の心が大陸的であつた時は過ぎて、同じ大和精神《やまとごゝろ》でもそのデリケエトな方面をあらはし來つた時がそれに替つて行つたやうに見える。

 僧最澄は唐土から歸朝して天台宗を傳へ、空海は歸朝して眞言宗を傳へた。これは新しい都の平安京に遷つた十二三年後のことであり、同時に印度及び支那方面に於ける創造的精神の變遷を語るものであるといふ。肉體を苦しめる難行苦行と、肉體的な歡びの崇拜と、その兩極端の不思議な結びつきは、密教の輸入以來のことのやうにも見える。平安朝時代の文學に、後になればなるほど多くの肉體的な歡びと迷信とをみつけることも、その由來する源は深いやうである。これはこの
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