桙ッたものとせられたのか、それらのことを聞いて見たかつた。
いづれにしてもあの元氣な澤木君がこんなに早く亡くならうとは思ひがけなかつた。わたしたちの周圍は今、いろいろな問題で滿たされてゐる。十年以前と今日とでは歐羅巴もずつと近くなつたやうな氣がする。君のやうに西洋文化を本質から見てかゝらうとする人のあつたことは、それだけでも意味が深い。君は飽くまでその熱意を持ち續けて、もつと長くこの時代に生きてゐて貰ひたかつた。
『根岸の鶯』
『根岸の鶯』とは、最近に出來た故岡野知十君の俳句集『鶯日』に因《ちな》み、またその舊廬『鶯日居』にも因んで、わたしが勝手に呼んで見た根岸の作者のことである。不思議な縁故で、わたしは作者の古巣とも言ふべき『借紅居』を知るところから、やがてその初音を聞きつける頃よりある親しみを覺えて來た。四十年も根氣よく啼きつゞけたといふこの老鶯は、わたしの耳に何をさゝやいて呉れるか。
俳句集『鶯日』は作者の一周忌に際し、その令息や弟子とも友達とも言つていゝ人々なぞの骨折から、故人が風興發句の殆んど全部を蒐めて二卷に編んだ記念の出版である。そのはじめに小泉三申氏の序があつて、その言葉の中に、
[#ここから2字下げ]
『余知十と交ること四十年になむ/\とせり。常に以爲《おもへ》らく、古人の俳人、初めに芭蕉あり、中ごろに蕪村あり、一茶あり、後には知十ありと。敢てみづからその故をあきらめむとはせず、唯みづからこれを信じて疑はざるのみ。』
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とある。
誰が何と言はうと自分はさう信じて疑はないと言はれるやうなこの序の筆者の言葉は強い。俳人としての知十君は言つて見れば俳諧の暖簾をうけ繼いだ六代目にも七代目にも、あるひはもつと後の代にも當る人で、初代の芭蕉もしくはそこから分れて江戸座の一風を成した其角なぞが出發當時の苦勞はせずに濟んだかと思ふ。あの蕉門の諸詩人が嘗めたやうな虚栗《みなしぐり》時代のにがい彷徨は知十君にはない。そこでわたしは古い俳人のことはしばらく措いて、もつと自分等の時代に近い一茶を引合に出して見ることがおもしろくないかと思つてゐる。さうしたら知十君の特色がはつきりわたしたちの胸に纏まつて浮んで來はしないかと思つて居る。江戸に於ける十年さすらひの生活は芭蕉のやうな人にも都會人らしいところを與へたかと思はれるふしもあるが、一茶はあの中年の長い放浪生活にもかゝはらず、江戸じまぬことおびたゞしい。無器用で、正直で、狹量で、多分の野性に富んでゐて[#「富んでゐて」は底本では「當んでゐて」]、容易に他と調和しがたい一茶が田舍に置いて考へて見たい人なら、『鶯日』の作者はどこまでも東京の水で洗つて洗ひぬいたやうな人である。そこに都會の詩人らしさがある。
心が涼しければ、句もまた涼しい。その涼しさを失はずに持ちつゞけて行つたところから、『鶯日』二卷に溢れてゐるやうなあの活氣と色艶とに富んだ詩情が迸り出て來てゐる。物わかりのよさ、情のあつさなぞは、二卷のどの頁にも見出される。作者はまた、都會の人にして初めて捉へ得るやうなものを實におもしろく短い十七字の形に盛つて見せる感覺の鋭敏さを具へてゐる。これを天稟《てんぴん》と思はないわけにいかない。どうかするとわたしは作者が贈答の句なぞに突き當つて、あまりの輕さにまごつくこともある。
[#天から4字下げ]新年に一つまゐらう松の鮨
いかにも知十君の句らしい。そこには口を衝いて出るやうな才華の煥發があり、わざとらしくないユウモアもある。しかしこの松の鮨ですら、最早淺草代地の名物でもなくなつてゐる。小松が何を食はせる店で、辨松が何の仕出しする家かも分らなくなつて行く日があるとすると、このすぐれた都會の詩人が書いたものにもかなり難解に思はれる部分が殘らう。ともあれ、『鶯日』の作者には、やゝもすると都會の人の陷り易い早呑込みがない。すべてが正味だ。作者は痰を吐く如くに句を作るべしと言つてゐて、虚心平氣ならば何の難いことがあらうかと語つて見せたといふことが、小泉氏の序の中にも見える。この鶯の好い聲はさうざらに聞かれるものとも思はれない。眞似の造り聲ではもとよりない。
[#天から4字下げ]君が手をわがふところに夜寒かな
この句なぞ知十君の生涯の中でいつ頃に出來たものか、その邊はよく知らないが、いかにも眞情がうち出してあつて好ましい。
[#ここから4字下げ]
青簾壁はまだ中塗りのまゝ
いつまでも簾の青き願かな
[#ここで字下げ終わり]
わたしは都會詩人としての知十君の特色をその夏の句に見つけることが多いと思ひ、殊に句の姿も涼しいと思ふものであるが、こゝには盡しがたい。
秋草
過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添へるつもりで、思は
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