クつと引籠りがちに暮されたやうで、長くもない君が生涯の終りには、かなり寂しくこの世を辭して行かれたかと想像せられるが、しかし君の亡き後になつて、こんなに舊知の人達から本當のことを言つて貰へるところを見ると、やはり君には人と違つたところがあつたと思はれる。
 わたしが澤木君を知つたのは佛蘭西の旅にある頃であつた。君はわたしよりも早く歐羅巴の方に渡つてゐて、南獨逸のミュンヘンからわたしのゐた巴里の下宿へ夏を送りに來た。そんなわけで、あの佛蘭西の旅を思ひ出し、巴里の町を思ひ出し、そこにあつた下宿を思ひ出すことが、わたしに取つては澤木君を思ひ出すことになる。ブウル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]アル・ポオル・ロワイアル、八十六番地。そこは巴里のサン・ジャックの古いごちや/\とした町と、ポオル・ロワイアルの電車通りとの交叉した角にあたる。石造と言ひたいがその實は所謂|羅甸《ラテン》區の界隈によく見かける塗屋風の建物だ。それでも七層の高さがあつて、第一階から上には二十家族を容れるほどのアパアトマンがあり、階下の歩道に接したところは粗末な珈琲店を兼ねた煙草屋、その他の店が佛蘭西風の暖簾《のれん》を並べてゐた。その第二階の左側に佛蘭西中部地方出のシモネエといふお婆さんが五間ほどの部屋を借り、下女を一人使つて下宿をやつてゐた。プラタナスの並木町の歩道に接して、高い堅牢な二枚戸の入口がある。壁に添うて螺旋形の階段がある。短いズボンに空脛《からずね》をあらはした子供、前垂掛けでスリッパをはいた下女、松葉杖を手にした背蟲《せむし》の男なぞが、その階段を昇つたり降りたりしてゐる。第二階の扉を押すと、廊下がそこに續いてゐて、七層の建物を圍む深い内庭の石を敷きつめた空地が窓の外にある。わたしが初めて澤木君を迎へたのも、その煤けた色硝子のはまつた薄暗い窓の側であつた。
 君の部屋を思ひ出して見る。
[#ここから5字下げ、31字詰め、3段組、罫囲み]
壁の上に銅板畫の額。置箪笥は鏡張りで、人の姿が映る。この箪笥の側に旅行用の鞄、杖、洋傘などいろ/\


ゴブラン織の厚い窓掛、別にレエスの窓掛。窓に向つて机、肘掛椅子、堅い椅子、敷物

洗面臺
暖爐
  寢臺(燭臺置物、便器入れ兼用)
                        部屋の入口の扉
[#ここで字下げ終わり]
 この寢臺、置箪笥、ゴブラン織の窓掛なぞは部屋についた造作と見ていゝ。洗面臺の上には造花模樣の陶製洗面器と、同じ陶製の水さしとが置いてあつたが、下宿のあるところから遠くないゴブランの町の陶器店で手に入れ得る程度のものだ。石造の暖爐の上は床の間の感じに近い。そこには古い置時計や、白い蝋燭をさした燭臺や、ランプや、その他にロココ式の古めかしい置物なぞがうるさいほどに並べてあつたと覺えてゐる。入口の扉の外は暗い廊下で、一方は食堂に續き、一方は狹い臺所と雪隱とにも近い。おそらく潔癖な澤木君はこの部屋に多くの薄ぎたないものを見つけたであらう。ちやうど君がわたしの下宿へ見えた時は、他に明き間もなくて、この部屋で我慢して貰つたが、たゞ廣いばかりで落ちつきもなくお氣の毒なくらゐのところだつた。こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。實は、そこにあつた寢臺なり、洗面器なり、青々とした葉かげの深いプラタナスの並木の枝から向ふの町の空に天文臺の圓い塔まで見えた窓の側なりは、このわたしに取つて君の記憶と引きはなしては考へられないくらゐである。のみならず、壁一重隔てた隣りの部屋はわたしが三年の月日を送つたところで、澤木君が顏を洗ふ音でも、窓をあける音でも、部屋を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る音でも、そこにゐてわたしは手に取るやうに聞くことが出來たからであつた。
 澤木君はいかなる場合にも十分な支度をして置いて、それから事に當るといふ風の人であつたらしい。君はわたしの下宿に見える前に、ミュンヘンの方で佛蘭西美術を探ぐるに必要な支度を十分にして來た。だから巴里へ來たばかりの時に既に相應な佛蘭西美術の知識を持ち、その方面の消息にも通じてゐて、どこへ行けば何があるぐらゐの見當はおほよそはじめからついてゐた。さういふ澤木君のことだから、その後、伊太利の旅に出掛ける時にもかなりの支度があつたらうと思ふ。おそらく君の足がまだ伊太利の國境をも越えない前から、君の内にあるあの熱心な鋭い眼はアッシッシの丘にあるサン・フランチェスコの寺を見、羅馬にあるフォラムの殘礎をさまよつてゐたらうかと思はれる。君から貰つた歐羅巴での旅の消息は今、いくらもわたしの手許に殘つてゐない。僅かに數葉の繪葉書しか殘つてゐない。
『歐羅巴の秋の美は筆紙に盡しがたく候。大島氏にも御紹介によりて大に便宜を得、感謝に堪へず候。來月七日ナ
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