驕Bそこには江戸人の高い笑がある。又、一例を言へば三千歳《みちとせ》の芝居だ。舞臺の上の武士はその情婦から嫌はれ、損な役※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りを勤めた上で、すご/\とその場を引きさがらなければならない。そこにも作者の笑が隱れてゐる。

 ある。ある。徳川中期の草雙紙、黄表紙、それから洒落本の類をあけて見たものは、當時の戲作者《げさくしや》が度はづれた笑に一驚するであらうと思はれるほど多くある。故北村透谷なぞはあの通りの人だから、それを徳川時代の平民的虚無思想といふことに結びつけて考へたくらゐだ。八笑人といふやうな、まるで笑の團隊のやうな人達もあれば、彌次郎兵衞、喜多八のやうに行く先に笑を振り撒く二人組の旅行者もある。

 しかし、最早わたしたちは、あの東海道や木曾街道の膝栗毛なぞをあけて見ても、昔の人のやうには笑へなくなつた。その滑稽がそれほど滑稽とも感じられなくなつた。本馬何文、輕尻《からじり》何文、人足何文と言つた昔に、道中記をふところにしながら宿場から宿場へとかゝつた頃の人と、今日のわたしたちとは違ふからだ。これは止むを得ないことだとしても、さういふわたしなぞが亡くなつた友人のまだ達者でゐた頃のやうにすら笑へなくなつたのには驚く。世界の地圖を變へ、民族の興廢を變へたばかりでなく、二十世紀の舞臺はあれからまさしく一轉したやうな、大正三年より數年にも亙る世界大戰の影響といふものは、こんなにわたしたちを變へたであらうか。この節、朝に晩に吾家へ配達して來る新聞紙を開いて見ても、殆んどわたしはその中に笑といふものを見出さない。たまに見つけるものはあつても、それは刺すやうに痛い時事の漫畫か、さもなければこの世界の苦の中に震へながら立ち盡してゐるやうな人々のカリカチュウル(戲畫)だ。こんなことで、どうしてわたしたちは自分等を延ばして行かれよう。

 好い笑は、暖かい冬の陽ざしのやうなものだ。誰でも親しめる。廣いこの世の中には、どうして見ても駄目だといふこともある。しかしそれを駄目だとしてしまはないで、どうかして温めて見たいと思ふのが、わたしたちの自然な願ひではないだらうか。

 ことしの正月は、親戚の年寄の御相伴で、市川團十郎追善興行の二度目の催しを舞臺の上に眺めて來た。噂のあつた古い歌舞伎の『鳴神《なるかみ》』をも初めて見物して來た。ちやうど幕合の廊下で、石井柏亭君や有島生馬君に逢つて、わたしたちはあの『鳴神』の面白さに就いて語り合つた。あれは謠曲の『一角仙人』から來たものと聞くが、婦人の名が雲の絶間姫といふことからしてをかしくもあるし、曲の主要な部分が假白《こわいろ》から成つてゐて、音曲はたゞそれを導き出すやうに作られてあるのも、歌舞伎としてはめづらしい。不思議にも、わたしは樂しく燃える蝋燭の火でも望むやうに、あの血の氣の通つた舞臺を靜かに眺めることが出來た。そこに人間性に觸れることの深いユウモアの力があると思つた。あの中には、行ひすました行者が美しい婦人の誘惑に神通力を失ひ、戒壇の上から轉がり落ちる場面なぞがある。自分はまだ笑へる、さう考へて歸つて來た時はうれしかつた。

 過去に於いて、この國に深い笑を持ち來したものは、何と言つても徳川時代の俳諧の作者であらう。わたしが芭蕉を愛し、丈草、去來、凡兆等の蕉門の作者を思ふのは、古人等が淺い滑稽から出發してそれを好いユウモアにまで深めて行つたところにある。古人等には風狂の説があつて、この世のさびしさの中にも笑ふことを教へて呉れる。わたしは又その意味に於いて西鶴の機智に感じ、徳川の世もさかりを過ぎた頃に一茶のやうな作者の生きてゐたといふことにも心をひかれる。

     ごめん下さい

『先生――ごめん下さい、新年早々から。』
 ことしの正月のことであつた。ある未知の少年から、かういふ書出しの葉書を貰つた。それには可愛らしい筆蹟で次のやうな言葉も認めてあつた。
『でも僕、氣にかゝつて仕方がないのです。といふのは、先生がいつも「達」といふ字を間違つてゐられるからです。こんなことは、どうでもいゝのですが、どうも先生の御寫眞を見てをりますと氣にかゝりますので、お知らせいたします。今年もよいお仕事をして下さい。』
 とある。
 これには、わたしも赤面した。成程、この未知の少年が教へてよこして呉れた通り、わたしはいつも『達』といふ字を間違つて書いてゐた。そして自分等の年若な時分に一度間違つて覺え込んだことは、何十年經つても容易にそれを改めることは出來ないものだと思つた。

     餞の言葉
[#天から10字下げ](新潮社發行大衆雜誌『日の出』の創刊に際して)

『日の出』の編輯氏から、その創刊號のはじに何か書きつけることを求められた。月々の讀者を相手にする雜誌發行のことは
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