「ふ人もゐたと考へて見ることも、またおもしろい。

     笑

 もし今の世に笑を持ち來す人があつて、詩歌小説であれ、繪畫彫刻であれ、演劇であれ、あるひは映畫であれ、何等かの形によくそれをあらはして見せて呉れるなら、どんなにわたしなぞはそれを見ることを樂しみにするだらう。
 誰でも人間の笑顏を見たいと思はないものはない。もし又、その笑が冷たいものでもなくて、直ぐにも親しめるやうなものであつて呉れるなら、どんなに樂しからう。そのことをすこしこゝに書きつけて見る。

 笑で思ひ出す。昔から美しい人のたとへにもよく引合に出される名高い支那の妃が、めつたに笑はなかつた人であるといふことは、やがて深窓に運命の激しさをかこつ東洋の婦人の多かつたことを語るものであらうか。後の世までその名を謳《うた》はるゝほど、みめかたち麗しく生れついた人達が、さうめつたに笑はなかつたといふことは面白い。さういふ人達が一度笑つたら、國を傾けるほど美しかつたといふことも面白い。
 古い東洋文學の一面といふものは、さうした多情多恨の文字で滿たされてゐる。そこには、香魂とか、香骨とかの言葉が拾つても/\盡きないほどある。そして、どうかして得たいと思ふさういふ笑のためには、千金をなげうつことも惜しまなかつたやうな人や、高い地位勢力を利用したやうな人や、才智腕力の衆にすぐれた人や、又は情人なぞのかず/\の數奇な生涯が語つてある。閨《ねや》、衾《しとね》から、枕の類にまで事寄せ、あるひは戀とし、あるひは哀傷として、詩にも作られ、歌にも詠まれ、文章にも綴られて來たのは、さういふ婦人達がこの世に持ち來した笑の美しさに就いてである。

 しかし、あはれの深さは、薄命な婦人達の姿にのみかぎらない。よく見れば、どんな人の姿でもあはれの深くないものはない。わたしたちの眼の前を通り過ぎる人でも、わたしたちの直ぐ隣にゐる人でも。

 どうしてこんなことを書きつけて見るかといふに、昭和も八年の春を迎へた今日、これを明治の初から數へて見るなら、すでに六十六年目にもなるが、だん/\わたしなぞは笑へなくなつたやうな氣がするからだ。周圍を見るに、どうやらわたしばかりでもなささうだ。これは明治生れのわたしなぞが追々と年老いて行くためばかりとも思はれない。この世の嬉しいや悲しいを一通り通り越して、わたしたちの笑が冷たくなつたためかといふに、さうばかりとも思はれない。

 些細なことがわたしたちを慰める、何故かなら些細なことがわたしたちを傷ませるからとやら。さういふわたしなぞも、些細なことに笑へたものだ。信州の山の上に七年の月日を送つた頃、長野でのクリスマスの晩に招かれて、燈火の泄れる教會堂へと案内される途中に、年若な牧師夫人が、二度も三度も雪に滑つて轉ぶ音を聞いた時。ずつと以前に仙臺への旅をして荒濱の方で鳴る海の音を下宿の窓に聞きつけた頃、その下宿の田舍娘から自分のアスの太いことを仙臺訛で笑はれて見ると、それが自分の長い放浪の結果であつたと初めて氣がついた時。ちよつと思ひ出して見たばかりでも、實に些細なことに笑ふことの出來た過去の自分が胸に浮んで來る。そして周圍にあつた友人等と同じやうに、自分等の性情を伸ばして行くことが出來たやうな氣がする。

 西洋の人に言はせると、一體に東洋人は笑はない、だから氣心が知りにくいといふ話を聞いたこともある。併しわたしたちの先祖からして、決して笑を解さない人達ではない。頬骨の高く鼻の低い『おかめ』の面の福々しいものから、農業時代の豐饒を祝福するかのやうな『翁』の面の氣高く老いさびたものにまで、古人の笑が殘つてゐるばかりでなく、おそらく外國には類の少なからうと思はれる笑をあらはした神像までわたしたちの國にはある。あの大國主、事代主の二神が國讓りの難局に處せられた遠い昔を想ひ見ると、今日の所謂非常時で、なか/\笑へる場合でもないのだ。それでも退いて民に稼穡《かしよく》の道を教へ、父は農業の祖神となり、子は商業と漁業との祖神となつたと言はれる神達が、どんな笑をこの世に持ち來したかは、夷《えびす》大黒として邊鄙な片田舍の神棚にも祀つてある一對の彫刻にもそれがあらはれてゐる。あの神達の笑はあまりに古くて、よく分らないが、後世の慾の深い人間が譯もなしに祭り上げるやうなものではなくて、思ひの外な深い笑であつたかも知れない。

 そんな遠い昔のことはしばらく措くとして、もつと近いところはどうだらう。どうして、わたしたちの先祖が笑を解さないどころか、猿樂から狂言となり、狂言から芝居となり、近代へと降つて來れば來るほど、古人の戲れた姿は殆んどわたしたちの應接にいとまがないくらゐだ。
 一例を言へば『暫』だ。舞臺の上の關白は對抗する力のために、見事にその荒膽《あらぎも》を取りひしがれ
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