や言葉の十分の一でも、この敬ふべき郷土の言葉をもつて驅使成し得るならば、と悲嘆に暮れた。思へば思ふほど、われ/\の言葉や文字は、尊嚴に過ぎて、到底犯し得ぬ貴重なものに變つた。』
[#ここで字下げ終わり]
新時代の作家として牧野君が出發はこゝに萌《きざ》してゐる。君はその言葉や文字の『尊嚴』や、到底犯し得ぬ『貴重』やを打ち碎くだけの才能と勇氣とをめぐまれた。あれほど少年時代に、あらゆる學科のうちで綴り方と作文が何より不得手で、母親に宛てる手紙すら思ふやうには書けなかつたと言ふ君が、その意味を悟る時を迎へるのだと思はれる。さてこそ、君が藝術には感情の解放ともいふべきものが強く働いてゐて、その特色が君の作の字々句々の上にあらはれ、わたしたちの心をひかれるのも主としてその點にある。あの雜誌『十三人』に載つた短篇『爪』などは君の學生時代の作ださうだが、君は戸外に飛び出し、君が手と足とを持つてゐることを、初めて感じたと言つてもいゝほどのものであつた。
不思議な縁故から、わたしは牧野君を引き出す役割をつとめたやうなものゝ、あの『十三人』時代の君は早晩頭角をあらはすべき人で、わたしはたゞ割合に早く君を見つけたといふに過ぎない。君の自敍傳によると、君は自身を裸島へ泳ぎついた漂流者に譬へてゐる。この漂流者は日々の營みを怠らずあちこちと移り住んだが、わづかな風にさへその打ち建てた小屋は忽ち吹き飛んで未だに家を成さないとも言つてゐる。それを君は運命的であると考へるやうになつて行つた人のやうでもあるし、またそんな昨日の自己を絶對の姿とは考へたくないと言ふ人ででもあつた。君はいつも自身の文章を讀み返すと、凡ての過去そのものの如く、いつそ自烈《じれ》つたいといふ氣を起した。君は一切の過去を棄却しなければならないとした。容易ならぬ人間の脱皮だ。それには身をもつて當らねばならない。君はその邊の深い消息を僅かに『文學的自敍傳』の終の方に泄らして置いて、それぎり歸つて來ない人のやうになつてしまつた。
何としても君の最後は傷ましい。筆執り物書くものに取つてはひとごととも思はれない。わたしのやうにして君の出發を迎へたものが、今また君を惜しむ諸君の仲間入りをして、こんな記念をこゝに書きつけるといふことは、これも何かの縁かと思ふ。生前の君が泳ぎついたその裸島にゐて、絶望と陶醉との底から身をも心をも起さうとしたといふことは、どんな新しい文學を豫感しての結果であつたか、それは推しはかれるかぎりでもないが、君が殘したかず/\の新鮮な作品と、この世に盡し得なかつた抱懷とは、わたしなぞのやうに長く文章に從事するものの垢を洗つて呉れるであらう。短篇集『酒盜人』、『鬼涙村』の二卷は、折を得て更によく讀みかへして見たい。
好き距離
[#天から10字下げ](岡崎義惠君が新著『日本文藝學』の出版をよろこびて)
蜘蛛といふものは、みづからの細い糸に身を托し、風の來るのを待つて、物と物との間をつなぐ好き距離を見つける。學者が古典探求の態度はまさにかくのごときものであらうか。日本の文藝も最近には學としてその方法と體系とを探し求めようとする岡崎義惠君のやうな熱心な學者がまとまつた研究を發表するところまで進んで來た。同君が長い年月をかけて見究めようとしてゐる物のあはれ、それから有心と幽玄の考察なぞは、中世時代の文藝から近代のそれへかけての間をつなぐ好き距離とも言つて見たいもので、近頃有益な文字であつたと思ふ。
日本海と太平洋
過去の日本人が日本海であるとするなら、現代の日本人は太平洋であると言つてもよからうか。太平洋に就いて想ひ當るのは、最近讀んだものの中に見つけたブランデスの言葉だ。ブランデスは太平洋が地球の諸海洋に伍し占めてゐる地位に比《たぐ》へて、實に心にくいことを言つてゐる。『太平洋、則ち靜かなる大洋は、最大にして同時に最深の海洋である。併し實際に靜かなのは、唯その帶状の一部分に過ぎない。太平洋の北部と南部は、樣々の氣流や貿易風のために、絶間なく波濤を擧げてゐる。幾多の海潮、それの逆潮、暖流、寒流が流れ巡つてゐる。太平洋には、また他の海洋には無い地震の波動がある』とこんなことが言つてあるのだ。われらは東西の文化を包容し得る最も惠まれた位置にあつて、過去に蓄積したものだけでも既にかなりの深さに達してゐるからと言つて、現代の創造的諸精神が皆われらの中に流れ込んで來ると考へるほど己惚《うぬぼれ》の強いものではないが、すくなくも平和を愛し、また靜かさを愛することにかけては他のいかなる國民にも劣るものでないと信ずる。これ、われらの太平洋であり、靜かなる大洋である所以だ。しかし、われらが現に營みつゝある歴史と活動の中には、廣い和やかな一帶がある外に、強い嵐があり、暖流
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