たところにあの故人の面目は躍如としてゐた。
 こんなことをこゝに書きつけて見るのも他ではない。わたしは『夜明け前』のやうなものを書いて見てゐる間に、だん/\作の意圖を深めて行くにつれて、歴史と傳説と實相とはどうしてもその取扱ひの方法を異にしなければならないことを感じて來たからであつた。
 ことしの正月、わたしは長い仕事をすました後の輕々とした心地で、久しぶりに改造社版フロオベル全集の譯本をあけて見た。フロオベル晩年の『三つの小さな物語』がそこにある。『ジュリアン聖人傳』は鈴木信太郎氏の譯、『エロディヤス』は辰野隆氏の譯、『純な心』はまた吉江喬松君の譯である。第一の物語は傳説、第二の物語は歴史、第三の物語は實相で、この三つの區別をフロオベルは三通りの樣式に書き分けてゐる。『ボ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]リイ夫人』のやうな作品を書き、更に『サランボオ』のやうな作品で過去を掘り起して見た作者なればこそ、その境地にも到り得たかと考へられる。殊に傳説を取り扱つたものは、その一節一句が殆んど寶石の光を放つとも言ひたいもので、よく讀んで見ればそれは隨分思ひ切つた誇張や濃い色彩が精しい觀察に結びついて來てゐることも分る。さすがに歴史を取り扱つたものの方にはそんな筆づかひはしてないが、さうかと言つて實相を書いたもののやうにこまかくは入つてゐないし、會話もすくない。日頃自分の考へてゐたことを明かに三種の文體に書き分けて見せて呉れたフロオベルのやうな先人もあつたと想ひ見た時はうれしかつた。尤もこれは物語の技法と文章文體の上の話で、それを充たして行く作者の内の生命のことではない。そんなら、歴史と傳説とはどうしたら活き返つて來るかといふことになると、それはまた別問題だ。單なる過去は歴史でも傳説でもないからである。

     牧野信一君の『文學的自敍傳』

 牧野信一君の『文學的自敍傳』はおもに少年時代を敍したもので、これから大人の世界に入つて見たことを書きはじめようといふところで筆が止めてある。止めてあるといふよりは、むしろそこで筆が進まなくなつて、自然に止まつてしまつたといふ趣のものだ。文學的な自敍傳としてはそんな端緒に過ぎないやうなものであるが、自然と文學へ赴くより他に結局道もなかつたかの感を抱かせ、一作家の生ひ立を思はせるには十分なほどに出來るだけの壓縮もその筆に加へてあつて、少年時代のどの一片をとりあげても、いづれも意味深く語つてある。その中に、君は小學でも中學でも凡ゆる學科のうちで綴り方と作文が何より不得手で、幾度も零點を取り、旅先などから母親に宛てる手紙も書きにくかつたといふ一節がある。君はそれに續けて次のやうに書いてゐる。
[#ここから1字下げ]
『母は私のハガキでも、私が戻るとそれを目の前に突きつけて、凡ゆる誤字文法を指摘した。第一文章が恰《まる》で成つて居らず、加《おま》けに無禮な調子であると訂正されるうちに、作文でも手紙でも私は、眞に考へたことや感じたことを、そのまゝ書くべきものではなく、さういふことを餘程|六ヶ敷《むづかし》い言葉を用ひて書くべきだ、さういふ窮屈を忍んで、決りきつたやうな眞面目さうな、嚴《いかめ》しさうな、そして思ひもよらぬ大袈裟な美しさうな言葉を連ねなければならぬのかと考へると、文字が亦、これがまた言語道斷といふ程拙劣であつて私は途方に暮れた。親戚などに父の代理として時候見舞などを書かされる場合に、母が傍で視張つてゐるのであるが、私には何うしても、末筆ながら御一同樣へも何卒宜しく御鳳聲の程を――などとは書けぬのであつた。』
とある。
[#ここで字下げ終わり]
 眞に考へたことや感じたことは、どうしてそのまゝ書くべきものではないかの疑問が、早くも牧野少年の胸に宿つたのであらう。君自身の語るところによると、君は結婚以前に三度もの戀愛を經驗したが、手紙はまるで駄目で、どんな類ひの手紙を相手の娘から貰つても容易にそれに匹敵するやうなことが書けず、それでも夢中になつて書くには書いたが讀み返すと、いつも全身が砥石にかゝつたやうな堪らぬ冷汗にすり減つたといふ。さういふ情人を見る時の君はまた、つい默り勝ちで、思はず欠伸《あくび》をするやうなことになつたり、眞面目なことを言はなければならない場合にも、つい空呆《そらとぼ》けて横を向いたりするやうな始末であつて、そのために君の求めるものは酬いられず、皆失戀に終つたとも語つてある。
[#ここから1字下げ]
『どんなに熱烈に思つてゐても、四角張つた特に拙い漢字で、戀しき君よ……などとは書けず、また徹底的に眞面目さうな表情で、屹度結婚しようネ――などとさゝやいて、手などは握れなかつた。私は、あのアメリカの娘(中學を終る頃にさかんに手紙のやりとりをしたアメリカ人の娘)に示した態度
前へ 次へ
全49ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング