し、それを同君の前に持ちだしたことなどを覺えてゐる。私が長い仕事に取りかゝる頃は花袋君はまだ達者でゐたが、さすがに著作の經驗の多い同君は年四囘發表といふやうな私のやりかたを危ぶまれ、今度の飯倉の仕事はおそらく一年とは續けられまいかと人に向つて語られたこともあつたとか。その私がどうやら仕事を續けてゐるうちに、心配してくれた同君の方が思ひがけない病氣にかゝつた。作の出來不出來は別としても、二卷にまとまつた本をあの友達の手に取つて見てもらへないことはまことに殘念に思ふ。さういふ私は年若な頃とも違つて今では少量の食しかとらないし、あの友達なぞに比べると三分の一の仕事も覺束ない。人一倍強壯な體格の持主であつた花袋君が先に亡くなつて、自分のやうなものが生き殘つたことさへ不思議なくらゐだ。
 この仕事をはじめかけた頃、次男と三男は相前後して歐洲への畫學修業に遠く旅立ち、長兄の連合《つれあひ》にあたる嫂が青山の親戚の家の方で亡くなつた。昭和四年の六月のはじめ、まだ梅雨の季節のやつて來ないうちに自分がこの作第一部の第二章を書き終つたのは、病床にあつた花袋君の一時快癒を聞く頃であつたと思ふ。中央公論誌上でわたしの發表しはじめた序の章はいくらかでも同君の無聊を慰めたかして、例の鉛筆で次の一詩を葉書にかいて寄せられたことも忘れがたい。
[#ここから4字下げ]
 讀[#二]『黎明前』序章[#一]賦呈
想起曾縢馬籠驛
萬山雲湧卷還舒
大溪幽壑藍青淀
仄屋斜簷深奧岨
盛列諸侯騎前蹕
亂槍敗將釜中魚
※[#「月+童」、291−3]朧日出襯[#二]今代[#一]
君作一篇足[#レ]起[#レ]予
[#ここで字下げ終わり]
 この詩、花袋君が形見としてわたしの手許に殘つた。第一部の第二章までをあの友達に讀んで見て貰へたことも今は思ひ出の種となつてしまつた。

 まだわたしは長い仕事の跡片付もすつかり濟ましてゐない。『夜明け前』を書くためには、作の性質から言つても參考となるべき種々な舊い記録を讀まねばならなかつたから、その都度各方面から借り受けた古帳日記の類は追々と返して來たものゝ、まだそれでも自分の手許にはいろ/\なものがそのまゝ殘してある。あれも返さねばならない、これも返さねばならないと心には掛りながら、たゞ/\休息したいと思ふこゝろもちで一ぱいなのが昨今のわたしだ。木曾王瀧村松原氏の庄屋古帳、中仙道追分宿土屋氏の名主古帳、信州埴科郡新地村山崎氏の名主古帳、木曾福島宿公用記録、妻籠本陣の御年貢皆濟目録及び本陣日記、馬籠宿役人蜂谷源十郎のつけた八幡屋覺帳の類は、街道筋その他のことを知る上にそれ/″\好い參考になつた。古い記録といふものも讀みがたいものが多く、反古裏《ほごうら》に書込みなどしたのもあり、お家流の書體でしかも走り書の文字を辿つてゐるときなぞは、まつたく茫然としてしまふこともあつた。しかし、それらの記録を殘して置いて呉れた人達があつて、明治維新前後の民間の事情もどうやら今日に辿られるやうなものだ。そのあるものを讀むと、木曾谷を領してゐた尾州徳川家では寛政年代の昔に名古屋藩としての觸書を出して、谷中のものが所持する源敬公時代以來の古記録を徴集した事蹟のあることなぞを知る。わたしはこの作をするにつけて今の尾州徳川家の蓬左文庫に負ふことも多い。

 大黒屋日記(年内諸事日記帳)の一節に曰く、
[#ここから2字下げ]
『中のかや(馬籠宿一部落の小名)五兵衞參り、土産に玉子十一惠み下され、就いては伜貞助當年拙者方へ預け、手習、算術など教へ、手すきの節は酒つぎなりと致させ(大黒屋は造り酒屋なれば)、厄介ながら頼みたきよし申し候につき、至て兩爲メと相成り候やと存じ、引き請け申し候。尤も、日柄見合せ、遣はさるべきやう申し遣はし候。(文久三年一月十八日)
右につき、二十四日に、五兵衞伜同道にて參り、兩三年も世話を頼むとあり。赤飯、さかな、柿など土産あり。』
[#ここで字下げ終わり]
 これを見ると、大黒屋日記の筆者は手習ひ子なぞをも教へたと見える。當時のお家流をよく書き、狂歌狂句の一通りは心得てゐた町人と見えて、物の捉へ方や記述する筆づかひにもなか/\性格が面白く出てゐる。
 この日記の筆者は大脇信興といひ、通稱を兵右衞門といふ。わたしの郷里の人で、今の大黒屋の當主大脇文平君の曾祖父に當る。この隱居は以前のわたしの家の上隣りに住み、郷里馬籠の宿場時代には宿役人の年寄役及び問屋後見として、わたしの祖父とは日夕相往來した間柄であつたらしい。この隱居の一番日記は文政九年、同じく十年、十一年の三ヶ年間の日記帳より成るもので、それをつけはじめたのは三十歳の頃かと思はれる。さういふ日記帳が二十七番までも文平君の家に仕舞つてあつた。最初のうちはわたしもあの隱居が二十七番の日記を殘したこと
前へ 次へ
全49ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング